かながわの川


多摩川を歩く その 〜変わりゆく京浜工業地帯〜

 多摩川流域のかつての工業地帯も、今ではショッピングセンターやマンション、工場移転後の空き地が目立つようになった。工場が消えていく原因を、バブル崩壊後の長期不況や、生産拠点の海外進出が原因と考える向きもあるかもしれないが、実は、川崎市南部においては、高度経済成長期末期の1971年頃から、工業地帯の空洞化は始まっていた。
 1960年代半ば、
川崎区の人口は10万人を超えていたが、70年代末には、一旦、7万人近くまで落ち込んだ。公害企業が移転を余儀なくされたことや、工場用地が手狭になった企業の地方への移転、さらに環境悪化を嫌った住民の転出などが原因としてあげられる。たとえば、1970年代始めに東京鍛工(現在の県立大師高校)が移転したのは鍛造過程の振動公害が原因である。また、同時期に日本鋼管(現JFE)は、競争力強化のために池上・渡田などの古くなった工場を一新し、資材置き場のあった沖合の扇島を拡張し、移転した。

写真3 旭硝子跡地のマンション(川崎区田町)

 80年代後半、バブル景気による地価の高騰は(それ以外の理由もあるが)工場の移転や海外進出を促し、広大な跡地には住宅、商業・レジャー施設などが建設された。90年代にはいってからは、バブル崩壊後の不況と工業の空洞化によって、工場の閉鎖、移転が加速し、工場地帯はさらに大きく変貌した。
 京急大師線の小島新田駅を下車し、大師方面に行くと左手に大きなマンション群が見えてくるが、ここには、かつて
旭硝子の工場があった(写真3)。
 小島新田から、南に約10分歩いた四谷下町の工場跡地には、付近住民の反対もあったが、霊園が建設された。都会にあって広大な敷地が得られる工場跡地は、交通の便も良く墓地を初めとする宗教関連施設などには最適なようだ(写真4)。



写真4 工場跡地の霊園(川崎区四谷下町)

 このように、京浜臨海部では、川崎区の他にも東京都大田区や、横浜市鶴見区などで工場跡地にマンション等が建設される傾向にある。それに伴い、人口も増加し、新たな通勤の足の確保が課題となっている。そこで注目されているのが、京浜臨海部東海道貨物支線の旅客化である(写真5)。
 京浜臨海部には、工場地帯の物資輸送のため、貨物線網が張り巡らされている。東海道貨物支線は、そのうちの鶴見から川崎区の塩浜貨物駅を通り、羽田、東京臨海部をつなぐ路で、すでに川崎アプローチ線の名称で、国に対し建設申請が出されている。この線が旅客化されると、横浜、川崎、東京の臨海部を結ぶ、大変便利な市民の足が誕生することになる。今年、川崎市の阿部市長は、川崎縦貫鉄道の建設を先送りしたが、東海道支線は、既存施設の利用であるため、案外早く実現するかもしれない。


写真5 東海道貨物支線

 再び、京急大師線に乗り、今度は港町で下車してみよう。

 国道409号線沿いでは、川崎縦貫道路の工事が進んでいる。川崎縦貫道路は、湾岸道路・アクアラインと、首都高横羽線、国道15号を結ぶ高速道路で、将来的には川崎の北部まで延長される予定で、将来の市の動脈として役割を期待されている。だが、付近住民の反対があったものの当初の予定通り建設が進められたため、地元住民の間では、完成時騒音や大気汚染に対する懸念も強い。03年現在、川崎区殿町付近まで道路の建設がすすみ、大師橋付近の旧日鉄建材跡地では、首都高速横羽線とのジャンクションの工事が行われている。
 国道沿いをさらに川崎駅方面に向かって進むと、大型のショッピングセンターが目に入ってくる。ここも、元は工場の跡地(旧東芝鋼管)である。1990年代後半から2000年代始めにかけての時期に、イトーヨーカ堂、ヤマダ電機などが相次いで出店した(写真6)。


写真6 国道沿いのショッピングセンター

 最近まで、川崎区には大型の駐車場を持つ郊外型のショッピングセンターはなかった。そのため、区内の買い物客が車で買い物肉場合、鶴見区や都内まで足をのばすことが多かった。このショッピングセンターが出来、以前遠方まで出かけていた人には大変便利となった。だが、以前栄えていた周辺の商店街への影響は大きい。近隣の中島町や伊勢町では客足も遠のき、店舗数も目立って減少している。

その1「川崎駅から六郷土手へ」

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