かながわの川
多摩川を歩くその1 〜川崎駅から六郷土手へ〜
川崎駅西口〜ソリッドスクェア・テクノピア〜六郷土手
〜日本コロムビア〜河港水門
この15年の間に、川崎駅西口ほど風景が一変した地域は、珍しいかもしれない。東京方面から東海道線に乗り多摩川を渡った右手は、少し前まで工場街だった。ヨーロッパの城を思わせる明治製菓、東芝の堀川町工場や柳町工場、さらに市境をこえ横浜市に入った辺りの日野車体工業などなど。今はいずれも、高層のオフィスや住宅、または建設予定の更地となっている。
明治製菓は、かつて明治製糖の子会社だった。明治製糖の前身である横浜製糖が、この地に工場を構えたのが明治39年のこと。川崎市は工業都市として知れるが、この工場は川崎の工場誘致第1号であり、工業発展のさきがけとなった。その後大正14年に、明治製菓がヨーロッパの城を真似、「お菓子の城」をイメージした工場を建設した。
その工場も今はなく、跡地には、かわさきテクノピアをはじめ、企業の研究施設やオフィスが立ち並ぶ(写真1)。1988年には、この地の開発をめぐり、贈収賄事件が発覚し、以降政界を揺るがすリクルート事件に発展した。
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写真1 多摩川よりテクノピア方面(2003年)
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製糖工場時代には、原料積み卸しのためのクレーンがあった多摩川べりは、今では護岸が整地されて水に親しめる空間となっている。また、対岸の東京側は広い河川敷が多摩川緑地運動場となっており、休日は草野球を楽しむ人々でにぎわう。
多摩川をややくだり、六郷橋を過ぎると日本コロムビアの工場がある。レコード全盛の時代にはこの工場でヒット曲がプレスされ、全国に出荷されていった。多摩川を渡る時に見えた、名物の音符の看板も、現在は撤去されている。
この一帯は港町と言う町名である。大正時代に計画された運河計画のなごりである河港があるため、この名が付けられた。美空ひばりのヒット曲「港町十三番地」は、作詞家の石本美由起氏が、この港町の地名から発想を得て、曲名が生まれた。元の曲名は港町三番地であったとのことだが、後に曲名が変わったのは、三番地では語呂が悪かったとのことらしい。
河港には、多摩川に面し昭和3年に完成した水門が現在でも残る(写真2)。水門の左右の塔には、かつてこの地の名産品であった果物をかたどった装飾が施されており、貴重な産業遺跡として国登録有形文化財に登録されている。
付記 川崎駅西口は、東口の繁華街に対し、東芝を初めとする工業地帯であった。JR川崎駅の東京寄の渡線橋は、駅改修前の東芝専用の出入り口の名残である。明治製菓が工場を閉鎖してからは、産業の空洞化や不況、東京に近い交通の利便性と言った理由でオフィス化、宅地化が急速に進み、現在では工場街の面影はみられなくなった。
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