高層アパート
中華人民共和国 チャンスー シャンハイ
1978.1.3/長谷川太洋
上海体育館の前に新築中の中国最新の高層アパートである。13階建てで、エレベーターつきという、今までの労働者住宅にはない大きなもので、新生中国の息吹を感じさせる。
労働者住宅
中華人民共和国 チャンスー シャンハイ
1978.1.3/長谷川太洋
上海市南西部に1954年完成した労働者住宅である。3階建て・5階建ての2種類からなる108棟に2006世帯、8700人以上が住む。住民の大部分は徒歩20分の江南造船所の労働者とその家族である。
託児所
中華人民共和国 チャンスー シャンハイ
1978.1.3/長谷川太洋
上海江南新村の託児所では、18か月から4歳位までの約280人の子どもを預かっている。18か月未満の乳児は母親が職場へ連れて行って哺乳室に預ける。
自転車通勤
中華人民共和国 チャンスー シャンハイ
1978.1.3/長谷川太洋
自転車は中国人の交通手段として、トロリーバスと並んで重要なものの一つである。職住接近のため、昼食を食べに家へ帰るので、朝・昼・夕の3回、各道路は自転車の洪水となる。
絨毯工場
中華人民共和国 チャンスー シャンハイ
1978.1.2/長谷川太洋
上海市郊外にある絨毯工場の織職場である。ここでは1000年の歴史を誇る絨毯と芸術壁掛けを生産している。生産額は年2万u、従業員830人で、半数は女性である。生産品の80%は、海外70か国へ輸出される。
銭塘江と銭塘江大橋
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.31/兼頼邦久
銭塘江の畔に建っている「六和塔」(970年建設、宋代再建)からの眺めである。こちら側は春秋時代の呉の国で、対岸は越の国であった。「呉越同舟」の故事の発祥地。大橋は1966年完成した長さ1453mの2段式の橋で、下段を鉄道橋に利用している。
杭州市民
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.31/長谷川太洋
杭州の街頭で出会った青年労働者たち。冬季であるため、厚手の上着を着用しているが、その色彩はかなりカラフルなものも見かける。表情には屈託がなく、明るい。
茶畑
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.31/長谷川太洋
中国きっての銘茶、ロンチン(竜井)茶は、杭州付近で生産されており、年製茶高は約6000tである。ここは杭州市霊隠の茶畑で、日本の茶畑と違ってごく自然のままという感じである。
四季青人民公社干拓地
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.30/長谷川太洋
四季青人民公社は野菜栽培を中心としており、10の生産大隊、105の生産隊を持ち、世帯数5300、人口23000人、耕地面積12000ムー(水田3200ムー、野菜畑8100ムー、養魚池1600ムー)の規模である。
野菜の採りいれ
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.30/長谷川太洋
四季青人民公社で作付けされている野菜は、白菜・キャベツ・シャクシナ・ブロッコリー・空豆・人参・ニンニク・カラシナ等が中心である。
野菜の運搬
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.30/長谷川太洋
平坦地の堤防上を野菜を積んだリヤカーが通る。畑から人民公社本部まではリヤカーで、その後の輸送は大八車とトラックが多いようだった。四季青人民公社では、大型トラクター・ハンドトラクター54台、トラック3台、電動鋤7台を所有し、機械化に務めた。
農家の自留地
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.30/兼頼邦久
中国では1957年「農業発展要項」が作られ、この年を基準に30年間自留地が認められている。1人あたり20uということだが、要項により1公社の自留地は耕作面積の5%以内と決められているので、ここでは約600ムーが認められている。
農家の台所(1)
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.30/長谷川太洋
四季青人民公社の一軒の農家の台所。床はほとんど土間で、大きな炉が造ってあり、鍋・釜がかかるように2つの竈口がある。その隣に調理台があり、壁際には食器戸棚が置いてあった。
農家の台所(2)
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.30/兼頼邦久
これは別の農家の台所で、大きな釜が2つかかる竈と、その手前は水瓶である。水瓶は屋外にも置いてある家もあった。
農家の寝室
中華人民共和国 チョーチャン ハンチョウ
1977.12.30/長谷川太洋
華中でも家の構造等の関係で、冬は-3〜4℃になるようだが、寝室は土間から一段高くなった板張りの上に、薄い綿のマットを敷くのみで、上は毛布と、日本でいう夏掛けのような薄いもの以外は使用しないようだ。
農村での穀物輸送
中華人民共和国 カントン フォーシャン
1977.12.29/長谷川太洋
貨物輸送には中国製のトラックもかなり利用されているが、人力に頼る部分も少なくない。
陶磁器工場
中華人民共和国 カントン シーワンチェン
1977.12.29/長谷川太洋
シーワン(石湾)美術陶磁器工場で、建物の壁などに「工業学大慶」「奮発必強」「自力更生」などのスローガンがあちこちに見られる。
工場労働者
中華人民共和国 カントン シーワンチェン
1977.12.29/長谷川太洋
シーワン(石湾)美術陶磁器工場の労働者。この工場では、ほとんど手作りの伝統的技術で、置物などの輸出用美術陶磁器を製造している。中国では工業の近代化に力を入れる一方、在来工業も大切にして、外貨の獲得を図っている。
古い家並み
中華人民共和国 カントン コワンチョウ
1977.12.29/長谷川太洋
コワンチョウ(広州)市の古い家並みで、漆喰で塗り固めた白い壁と、瓦葺きの屋根が特徴的だ。建物は、住宅の他、小規模な町工場としても利用されている。窓が比較的小さく、屋内は暗い。
大字報
中華人民共和国 カントン コワンチョウ
1977.12.29/長谷川太洋
コワンチョウ(広州)市の中山医学院の掲示板に貼られていた四人組を批判する壁新聞(大字報)である。中国では、世論形成に壁新聞が大きな役割を果たしている。
島畑
中華人民共和国 カントン
1977.12.28/兼頼邦久
カントン(広東)省のチュー川(珠江)デルタは、低湿地のため、畑作物を栽培するために、土を高く盛り上げて島状の畑にしてあるのが列車の中から観察できた。
サトウキビ畑
中華人民共和国 カントン
1977.12.28/長谷川太洋
華南のカントン省は、亜熱帯気候を利用したサトウキビなどの栽培も見られる。しかし、耕地整理も進まず、栽培規模も小さい。周辺の水田では、裏作が行われている。
バナナ畑
中華人民共和国 カントン
1977.12.28/長谷川太洋
華南では、亜熱帯の気候を利用した作物栽培が行われている。画面のバナナ畑には灌漑が行われている。手前の水田は休耕中だが、華南では米の二期作または裏作を含めた三毛作も行われる。
土地改良
中華人民共和国 カントン
1977.12.28/長谷川太洋
カントン省を走る列車の車窓から、耕地で多くの人々が集団作業をしている光景をしばしば目撃した。冬の農閑期を利用して、土地改良をしているものらしいが、人海戦術的で、機械力の普及は不充分である。
中国と香港の国境
中華人民共和国 カントン―英領香港
1977.12.28/長谷川太洋
中華人民共和国と香港の国境になっている小川の上にかけられた橋の上。手前が中国側のシェンチェン、向こう側が香港のローウーである。鉄道・道路はつながっているが、旅客は歩いて国境を越える。
香港の農村地域と送水管
英領香港 ニューテリトリー(新界)
1977.12.27/長谷川太洋
香港の新界は農村地帯になっている。丘陵の谷間が耕地として利用され、画面では冬作物が栽培されている。画面中央を横切っているのは、中国本土から香港へ水を送っているパイプラインである。
香港の景観
英領香港 ヴィクトリアピーク
1977.12.26/長谷川太洋
手前が阿片戦争(1840-42)の結果英領となった香港島のヴィクトリア市、対岸が1860年北京条約により英領となったカオルン(九龍)半島、遠景は1898年に租借されたニューテリトリー(新界)である。
貧民街
英領香港 ヴィクトリア
1977.12.26/長谷川太洋
香港には中国本土の政変や凶作のたびに脱出してくる難民が多く、彼らは定職もないままに、丘陵の斜面や水上などにスラムを形成して住み着く。
高層アパート
英領香港 ヴィクトリア
1977.12.26/長谷川太洋
これは前の齣のスラムに隣接するように建てられた中産階級用の高層アパートである。香港は土地が狭く、人口密度が非常に高いため、いきおい建築物は高層化せざるを得ない。
香港の繁華街
英領香港 ヴィクトリア
1977.12.25/長谷川太洋
香港はイギリスの植民地のため、二階バスなどイギリスの影響が見られると同時に、他の先進資本主義国、中でも日本企業の進出が著しい。

1977-8 日中友好地理教師の旅