湘南地区No.4-7 急速に数を減らす「車窓工場」
(2008年10月作成)
湘南地区No.4-7 急速に数を減らす「車窓工場」
(2008年10月作成)
1.「車窓工場」と戦前に進出した工場の違い
湘南地区の東海道線沿線には、電車の乗客を意識して建てられた工場が並び、それらを車窓工場と呼んでいた。このような工場は1960年前後に建てられたもので、実用一点張りだった従来の工場とは一線を画していた。敷地を広く取って芝生や樹木を植えたり、建物にもガラスを多用したほか、電光掲示によって東海道線の乗客に天気や温度を知らせていた工場もあり、工場そのものが企業PRの場所になっていた。
かつて鉄道が貨物輸送の中心であった時代、多くの工場は最寄り駅から工場までの線路(=引き込み線)を敷き、貨車を工場まで乗り入れさせて積み降ろしを行ったので、鉄道沿線に工場を建てることが多かった。このような臨鉄道立地とでも呼ぶ工場は、第二次世界大戦前に手狭だった東京から郊外へ移転してきた工場が多い。例えば、茅ヶ崎のTOTO(かつての東洋陶器)のほか、現在辻堂駅前の再開発に跡地を提供した関東特殊鋼、平塚にあった相模紡績などがこれに該当する。(現在、湘南地区の引き込み線は全廃されている。)
これに対し、車窓工場はトラックが貨物輸送の中心になってきた時期に建設され、引き込み線を持たず、鉄道沿線にありながら鉄道との関連性は薄かった。
しかしその車窓工場も、近年急速に姿を消しつつある。この背景には、1990年代以降企業の生産拠点の見直しが進められ、他地域の工場に比べて地価が高く多額の売却益が見込まれる湘南地区の工場は売却対象にされやすいことがあげられる。
2 湘南地域東部の「車窓工場」
東海道線沿いの車窓工場は、戸塚駅・大船駅間のタツノ・メカトロニクス横浜工場(1964年操業開始)、大船駅・藤沢駅間の武田薬品工業湘南工場(1963年操業開始~2006年撤退、以下年号は操業開始と撤退の年を示す)および山武藤沢工場(1961年~、現藤沢テクノセンター)、藤沢駅・辻堂駅間の松下グループ(当初は松下冷機・松下精工・松下電器産業の3工場。松下冷機は1961年~2008年)および日本電池藤沢工場(1965年~2001年)などが並んでいた。
このうち、武田薬品工業は湘南工場跡地を売却する予定だったが、大阪市とつくば市にある研究所を集約した新研究所を湘南工場跡地に建設する予定である。湘南工場跡地に建設することに決まった理由として、土地の買収費用がかからないこと、首都圏にあり優秀な研究者の確保が容易なことに加え、神奈川県が多額の助成措置を行うとしたことが決め手とされている。しかし、研究所の実験系排水を公共下水道に流す計画に対し、住民から排水を独自処理するべきだという声があがっている。またこれをきっかけに、藤沢市村岡への東海道線新駅設置の要望も起きている。
松下グループの工場も拠点再編から工場の閉鎖・移転が進められていて、現在は広大な更地となっている。また、日本電池(現ジーエス・ユアサ コーポレーション)藤沢工場の跡地には、大型ショッピングセンターの湘南モールフィルが2003年にオープンした。その一角に設置されたパネルが、日本電池藤沢工場の跡地であることを示している。
3 湘南地域西部の「車窓工場」
平塚市は戦前からの工場と住宅が並び東海道線沿線には広い土地がなく、戦後進出した工場はすべて線路から外れた相模川沿いの地域に建設されたので、車窓工場はなかった。
大磯町では、日本ナショナル金銭登録機(通称だった日本NCRが、現在は正式な社名に)大磯工場(1957年~2007年)、ジョンソン本社工場(1972年~1996年)などが代表的であった。大磯の2社は、ともにアメリカ合衆国の企業の日本法人であるところに特徴があったが、現在は2社とも撤退したため、相模川以西の湘南地域には車窓工場と呼べるものが全くなくなってしまった。日本NCRの跡地は売却されて更地となっているが、今後の利用方法は未定である。またジョンソンの跡地は平塚学園高等学校湘南研修センターとなり、主に野球部の練習に使われている。
【鶴嶺高校 能勢博之】
写真1 日本電池藤沢工場跡地であったことを示す湘南モールフィルのパネル
写真2 日本NCR大磯工場の 閉鎖直前の姿(2006年撮影)
写真3・4 現在は姿を消したジョンソン大磯工場(1996年撮影)