横須賀三浦地区3-3 造船と共に歩んだ浦賀(横須賀市)

    2008年6月作成

 

1.「造船の町」浦賀の衰退

 江戸時代から奉行所が置かれ重要な港として発展した浦賀には、幕末の1853(嘉永6)年、ちょうどペリー来航の年に江戸幕府により最初の造船所が開かれ、1854(安政元)年には日本最初の洋式軍艦の鳳凰丸が建造されたが、この造船所はしばらくの後閉鎖される。ちなみに、浦賀はよくペリーが上陸した地と言われるが、実際には当時の密集した市街地を避け、隣の湾の久里浜に上陸している。上陸記念碑や記念館も久里浜にある。

日清戦争後の1897(明治30)年に浦賀船渠株式会社が設立された。この会社の発起人には、あの函館五稜郭で最後まで旧幕府のために戦った榎本武揚もいる。浦賀湾奥の大造船所は、市民からは「浦賀ドック」と呼ばれ、浦賀の発展の中心となった。また、湾口にも川間工場が造られた。1930(昭和5)年には横浜の黄金町から鉄道(当時は湘南電気鉄道、今の京浜急行の前身)が開通した。ちなみに、当初は浦賀からさらに路線を延長し三浦半島を一周する計画があり、近年まで浦賀駅から先に線路の橋が道路上に架かっていた。また、現在の京浜急行の運転形態は久里浜方面が本線のようになっているが、今でも本線は浦賀への路線である。

その後、1962年には浦賀重工業と名を変え、1969年には住友機械工業と合併し、住友重機械工業浦賀造船所となった。ここでは青函連絡船や日本丸・海王丸、大型タンカーや自動車運搬船や自衛隊の護衛艦など多くの大型船舶が建造され、浦賀の町はドックで働く人でにぎわった。

 しかし、オイルショック以後、海運業の世界的不況、船腹数過剰、さらには海外の受注数の増加などで造船所は衰退し、それと共に浦賀の中心部も寂れていった。1984年には川間工場が閉鎖され、2003年にはついに造船所全体がその使命を終え、105年の歴史を閉じた。


2.新たなる道のりへ

造船衰退期から、町の周辺の丘陵部には次々と住宅地が作られていったものの、駅周辺の中心部は空洞化が顕著であった。その後、川間地区には再開発によりリゾートマンションやヨットハーバーをもつシティーマリーナ・ヴェラシスが建設された。浦賀ドックの周辺の岸壁にはかつて多くの船が繋留されていたが、今ではそのほとんどがすっかり何もない「ただの海岸線」になってしまっている。ただ、造船所の中心の建物はほぼそのまま残っており、1943年に作られた大型クレーンや、日本にいくつかしか残っていないレンガ造りのドックもまだ跡地内にある。昨年11月に、浦賀造船所跡は経済産業省によって「近代化産業遺産」の一つに認定された。造船所が産業遺産になったことにより、幕末開港期の史跡と合わせ観光資源として再び活用できるのではという話が出ている。また、広大な敷地の跡を利用して海洋系大学の誘致を進める話も一部では聞かれる。

【県立津久井浜高校 野本聡】


写真1 かつてのレンガ造りドック(2009年3月撮影)                



写真2 アームが取り外された旧ドックのクレーン(2009年3月撮影)



写真3 浦賀駅から見た造船所跡(2007年12月撮影)



写真4 浦賀駅から見た造船所跡(2009年3月撮影)



写真5 かつての岸壁 フェンスの場所には船への入り口があった。(2007年12月撮影)




写真6 工場跡とマンション(2007年12月撮影)



写真7 現在の川間地区(2007年12月撮影)


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