横浜地区No1-9  鶴見区の再開発1 (横浜市鶴見区)

2008年11月作成

 

1.昔は漁師町だった鶴見川河口部

 鶴見区の海岸線は、鶴見川や六郷川(多摩川)が運ぶ土砂が堆積し、かつては遠浅の海岸であった。漁業は江戸時代に盛んになり、生麦を中心に、アナゴ、カレイ、アジ、キス、ハゼなどの魚、アサリ、ハマグリなどの貝類など豊富な魚種が水揚げされた。また、明治に入ってからは潮田や生麦付近での海苔の養殖、アサリの養殖は生麦で行われ、鶴見の漁業は栄えていた。ところが、その後にはじまった埋め立て地の造成工事と、産業公害によって、漁業は大きな打撃を受けてしまう。

 戦後になってからも、生麦に漁業組合があり、現在の大黒ふ頭や扇島のある海域を漁場として、漁、海苔養殖が続けられた。だが、漁場であった海域の埋立てが決まり、1976年には鶴見区内の漁協の漁業権が放棄された。

 かつての漁師町生麦には、魚河岸通り(生麦魚介商組合)があり、約35店の鮮魚店がたち並んでいる。生麦の魚河岸は、主に寿司店をはじめとする飲食店向けの卸店が多いが、一般消費者への小売りも行っている。品数も豊富で、高級な食材が比較的安価で買えるため、特に年末は買い物客でごったがえす。また魚河岸通りの周辺には、美味しい魚が食べられる飲食店もあり、横浜の隠れた観光スポットとなっている。


写真1 生麦魚河岸通り(2008年10月撮影) 早朝から午前中に営業するため、午後には写真のように閉店している。鮮魚店の他に天ぷら店などの飲食店も多い。 



写真2 鶴見川河口干潟(2008年12月撮影) 魚河岸通りに平行して、鶴見川河口にわずかに残る干潟。白いのは砂ではなく、漁港当時に捨てられた貝殻が積もったもの。


2.重工業の町鶴見

 区内の海岸部の埋立ては、江戸時代の小野新田の開発に遡るが、工業用地としての開発が本格化するのは、浅野聡一郎が1912(明治45)年に「鶴見埋立組合」を設立して以降のことである。漁民を中心に埋立て反対運動があったが、1913(大正2)年、末広町・安善町の埋立工事が着工された。これらの埋立地には旭硝子、浅野セメント、日本鋼管、浅野造船所、日本鋼管鶴見造船所、芝浦製作所、スタンダード石油、ライジングサン石油の工場が建設され、重工業地帯が形成された。

 昭和に入ってからは、1932(昭和7)年に県営の鶴見川河口部の埋立地が完成し、東京ガス、鶴見曹達、保土谷化学などの化学工場や、味の素、昭和産業などの食品工場も輸入原材料の関係から立地した。その後、大黒町に日産自動車鶴見工場(現横浜工場)が進出、また川崎市側も続々と埋め立てられ、多摩川河口部から鶴見川河口に至る京浜工業地帯の中核部が出来上がった。

 戦後は、日本鋼管(現JFE)の扇島移転のための埋め立て工事(1971年着工、1974年完成)や市営の大黒町、そして大黒ふ頭の建設と、鶴見区の地先水面は沖へ沖へと埋め立てられた。


写真3 海芝浦駅からの鶴見つばさ橋を望む(2004年11月撮影) 奥に見える大黒ふ頭は、横浜の新しい港湾機能の中心的役割を果たしている。


3.重化学工業からの転換

 公害問題の発生以後、1970年代から京浜工業地帯で、工場の地方への移転が相次いだ。また、1980年代以降は、日本の貿易黒字に対する外圧や、国内の人件費高騰などを理由として、生産拠点の海外流出も顕著となった。鶴見区内の工業地帯も例外ではなく、工場の移転にともなう産業の空洞化が目立つようになった。

 京浜臨海部の空洞化に対し、現在、横浜市は鶴見区末広町地区を「横浜サイエンスフロンティア」と位置づけ、研究機関の誘致を進めている。2000年には理化学研究所横浜研究所が、2001年には横浜市立大学鶴見キャンパスが設立され、産学共同で、最先端のバイオテクノロジー研究が行われている。また、2009年4月には横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校が開校を予定している。同校は、先端科学技術4分野(生命科学、ナノテク・材料、環境、情報)の本物に触れる教育を目標にかかげ、将来の科学技術者の育成をはかる。

 この他の臨海部の施設としては、横浜市資源循環局鶴見工場のゴミ処理焼却熱を活用した、温水プール・入浴施設をあわせた「ふれーゆ」や、東京ガスの「環境エネルギー館」などが、かつての重工業地帯の新たな顔となっている。



写真4 横浜サイエンスフロンティア高校(2008年10月撮影)  2009年の開校を目指し現在校舎が建設中である。




写真5 東京ガス環境エネルギー館(2004年10月撮影) 幻の世界都市博覧会(1996年開催予定)のパピリオンを使い1998年に東京ガスが開設した、環境問題を考える体験型施設。


参考文献 「鶴見区史」(1982年発行)

【釜利谷高校 井上 達也】

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