湘南地区No.16 「東京大学農学部付属二宮果樹園」(中郡二宮町)

2012年8月作成

 

1.長寿の里「二宮」

 神奈川県西部に位置する中郡二宮町は、昔から「長寿の里」として知られてきた。1930(昭和5)年の国勢調査によると二宮町は隣の大磯町と並んで、神奈川県の他の市町村と比較すると65歳以上の高齢者の占める割合が高い傾向が見られ、1975(昭和50)年までの45年間もこの傾向が続いた。

 新聞紙上に初めて掲載されたのは1934(昭和9)年1月の「横浜貿易新報(現在の神奈川新聞)」だった。「日本一の長寿村」という大きな見出しに続き、冬は暖かくて夏は涼しい海洋性気候に恵まれ、海や山の幸を食する村民の生活習慣が詳細に書かれていた(当時は吾妻村で、昭和10年に二宮町となる)。

 現在でも二宮町には老人ホームなどの施設が多く存在し、地域の高齢者がボランティア活動(清掃や交通安全指導など)を活発に行う自治体として知られている。



図1 風光明媚な二宮町・吾妻山(2005年撮影)


2.別荘から果樹園へ 

 1902(明治35)年4月にJR東海道線の二宮駅が開業すると、この恵まれた気候風土に惹かれて東京方面から政界・官界・財界などの上流階級の名士らが相次いで海辺を中心に別荘を構えていく。すでに隣接する大磯町には伊藤博文(初代総理大臣)らの別荘が形成され、その延長線上に拡大していった。

 別荘所有者には5・15事件の凶弾に倒れた犬養毅首相、三菱銀行の山川捨次郎頭取、九州の肥前藩藩主の子孫である松浦厚男爵、日露戦争で活躍した陸軍の奥大将などが名前を連ねていた。また、欧米人の別荘も数軒ほど存在して海岸沿いの別荘地は落ち着いた地域を形成していた。

 それらの別荘の中に第十五銀行(三井住友銀行の前身の一つ)の頭取だった薩摩藩出身の園田孝吉男爵が所有する別荘が二宮町中里(当時は吾妻村中里)にあった。

 1919(大正8)年2月に東京帝国大学(東京大学)農学部が、この別荘を買収して開園したのが「東京大学農学部付属二宮果樹園」である。東京大学が二宮を選んだ理由は次の3点である。

1)二宮町は日本の栽培限界のミカンの北限、リンゴの南限に位置していた

2)東京からの距離が約70kmと比較的近かった

3)当時は人口が少なく、落ち着いた地域だった

 この買収に先立つ11年前の1908(明治41)年4月、神奈川県立園芸試験場(現在は二宮町生涯学習センターのラディアン)が二宮町二宮に開設され、園芸農業を研究する中心拠点として優れた実績や成果を挙げていたことも影響していると推測されている。



図2 別荘当時の庭園のなごり(2005年)


3.二宮町の憩いの場所として



図3 二宮果樹園の看板(2012年)


図4 2005年当時の宿泊所


 東大の二宮果樹園は約4haの土地にミカン・リンゴ・ブドウ・ナシ・カキなどの果樹林が栽培されており、他には研究棟・実習所・宿泊所・倉庫・車庫などが建っている。毎年、秋になると農学部の学生たちが泊まり込みで2週間の農業実習を自炊しながら行い、教室の講義だけでなく土にまみれて汗を流すという貴重な体験をしている。

 普段は地元の住民にも開放されて見学や観察を自由に行うことが許可され、四季折々の植物を眺めたり、観察したり、スケッチしたりする人々が多かった。最近では小・中学生たちが体験学習で訪れ、果樹の摘み取り作業をして土に親しむ大切な場所としての役割も担っていた。



図5 2012年現在の農場跡の様子


4.多摩農場に移転

 しかし、長い間地元に愛されてきたこの施設は残念ながら2008(平成20)年3月をもって閉園となり、職員や機材などは東京都西東京市田無にある「東京大学多摩農場」へ移転して統合された。閉鎖した理由は2004年に国立大学が独立行政法人へ移行し、人と施設の効率的運営を行って維持運営費を節約するためであるという。

 移転後にこの土地を二宮町が2012年に4億5000万円で買い取り、町議会も同意している。将来の跡地利用は、今後住民の意見を幅広く聞いて詰めていく方針である。現在は公園や住宅などの計画が取りざたされている。

 約一世紀近くも二宮町の貴重な緑のオープン・スペースとして親しまれてきた果樹園の行く末を住民たちは大いに注目している。

【二宮高校 比佐隆三】


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