川崎地区No2-8 変わる新百合ヶ丘駅周辺 地域開発のあゆみ(麻生区)                                   

2009年9月作成

 

1.変わる新百合ヶ丘         

  人口166,444人(2009年7月1日現在)を抱える麻生区の行政、商業の中心地小田急線新百合ヶ丘駅周辺は現在、街並みが成熟するとともに「しんゆり芸術のまちづくり」構想により、さらにその魅力を増し、発展変貌しつつある。

 新百合ヶ丘の在る麻生区は川崎市の最北部に位置し、1982(昭和57)年に多摩区より分区した新しい区で都心へのベッドタウンとして急速に開発が進んだ地域である。


写真1 にぎわう新百合ヶ丘駅 改札口から駅北口方面を望む(2009.8撮影) 

 

2.新百合ヶ丘駅周辺の開発経緯

  この地域の開発の端緒は1960年入居開始の日本住宅公団「百合丘団地」の開発で、これを契機に「百合丘団地」周辺や王禅寺付近が日本信販、勧銀土地建物、三井不動産など大手不動産により開発されていき、中小の宅地化も進展していった。近郊農村的色彩の強かった柿生地区(旧柿生村=麻生区の中央〜西部の大半)の土地利用は乱開発の危険にさらされ、農業関係者はこの状況に対処するため当時の農水省が発表した「協同組合による農住都市構想」に基づく開発を試みることになった。

  同構想に基づき柿生地区は農水省の「農住団地建設計画推進地域」の指定を受け、柿生全域1780haを農家と自治体と地域住民が連携していくことを前提とした開発が始まった。1970年その第一号として新百合ヶ丘地区46haが行政・商業施設からなる「センター地区」として位置づけられ、この地区の農家18世帯を中心に1972年には土地区画整理組合準備会が設立された。一方、川崎市では新百合ヶ丘地区に行政センターを置く北部副都心計画を進めており、「農住都市構想」を軸として調整と推進を図るため、1974年「百合丘南部地区総合開発協議会」(市、地元準備会、小田急で組織)を発足させた。この背景には多摩ニュータウン建設に伴う新線分岐点として新百合ヶ丘が選定され、線路付け替えと新駅設置が予定された事が大きい。

  1974年には小田急多摩線が開通、新百合ヶ丘駅も開業、新百合ヶ丘駅周辺開発が本格化し1984年には土地区画整理事業は完成する。新百合ヶ丘地区の開発計画は駅北側が行政・業務サービス地区、駅南側が商業地区となっている1982年麻生区が多摩区より分区し、1980年代は北側は各公官署が整備されたが南側の商業施設の整備は遅れ未だ閑散とした状態であった。     



写真2    1984年 新百合ヶ丘駅周辺土地区整理事業完成のころ

   (「この町だいすき おうぜんじ」 王禅寺小学校副読本 より)


「農住都市構想」は柿生地区の他の三ヵ所でも構想されたが、残念ながら既に土地譲渡が広くなされてしまっており、新百合ヶ丘地区以外では実現されなかった。一方、新ゆりグリーンタウン(1981年41ha:市公社など)、小田急多摩線沿線の土地区画整理事業(1976〜1982年 計約150ha:小田急)などの他の事業主体による大規模開発が進み新百合ヶ丘周辺の人口は急増していく。これを受け新百合ヶ丘駅南側の商業施設が1990年代に次々開業していく。エルミロード(1992年)、ビブレ(1993年)続いてOPA、ホテルモリノ、アコルデ北館などが開館し新都心として賑わいを見せるようになる。

【麻生総合高校 斉藤 正】



写真3   開発後  2007年ころ     (しんゆり・芸術のまちパンフより)



写真4  1981年 新百合ヶ丘駅南口 開業して7年経っても工事中

        (写真集「わがまち麻生」より)



写真5 現在の新百合ヶ丘駅南口   同方向より駅改札口方向を望む   (2009.8撮影)



写真6 1981年 駅北口、工事中の麻生区役所 (写真集「わがまち麻生」より)



写真7 現在の北口、麻生区役所方面    (2009.8撮影)


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