横浜地区No1-3  新横浜駅周辺の変貌その1(港北区)


2008年2月作成

 

1.新横浜駅周辺の歴史

 1964年10月1日、東海道新幹線の開業により、水田の中に新横浜駅が設置された。新横浜は駅開設当初から将来の横浜の新都心と位置づけられていたが、横浜の中心部からのアクセスは横浜線に限られ、本数も駅開業当初は少なかったため、周辺の開発は遅れた。しかし、開業当初の時期に横浜市は、新横浜周辺地域の開発に計画的に取り組みはじめていた。南学編著「横浜 交流と発展のまちガイド」(岩波ジュニア新書2004年発行)によれば、直接新横浜周辺地域には深くは触れていないが、横浜市がグランドデザインの視野から、早い時期(1960年代)に将来を見越した都市計画を策定し、実現に向け動いていたことを読みとれる。新横浜周辺も、1964年(新幹線開業の年)に、鶴見川支流である鳥山川に沿って広がっていた耕地を土地区画整理事業の対象とし、将来の新都心として位置づけられた。(「新神奈川県の地理」参照)第三京浜港北インターチェンジから新横浜駅前までの道路も整備され、交通の利便性も徐々に改善されたが、70年代に入ってもまだ周辺の開発は進まなかった。

 ところが、80年代後半にはいるとあたりの様相は一変する。オフィスビルの建設ラッシュが始まり、相次いで企業の支社や研究施設が移転してきた。その原因は以下の3点にある。第一に、80年代に入りさらに交通の利便性が増したことである。具体的には、新横浜が「こだま」のみの停車駅であったのが、80年代前半より「ひかり」が日に数本停車するようになり、関西・中部方面へのアクセスが向上したこと。また、85年3月には、横浜市営地下鉄横浜駅〜新横浜駅間が開業し、横浜市中心部との接続が飛躍的に向上したことが挙げられる。

 第二に、横浜市の積極的なこの地区への集客の努力がある。1989年に開業した横浜アリーナや、地域医療の拠点として91年に設立された横浜労災病院および翌92年の障害者スポーツ文化センター横浜ラポールの開設は、単なるビジネスの中心地ではない、商業・文化・スポーツ等の複合的な町作りの一環であった。1998年の横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)の開業と2002年FIFAワールドカップの決勝戦開催は、この流れの中にある。

 第三の理由は当然のことだが、「バブル景気」の影響である。80年代後半のバブル期に東京都心部の地価は異常に高騰した。そのため、都心に近く交通の便も良い新横浜は、都心部と比較すると割安感もあり、またまとまった土地もあったため企業の進出が相次いだ。


2.現在の新横浜駅周辺

 バブル崩壊後開発は一時停滞したが、最近の開発ラッシュの影響で、新横浜周辺にはオフィスビルの建設が続き、また入居率も関内などの横浜中心部と比較して高い。新横浜の入居率が高いのは、横浜市内の企業や支社が、古いビルが多くIT化が遅れた関内地区から支社機能を移転してきているからである。オフィスに増して目立つのが、マンションである。オフィスの間の空き地や、鳥山川沿いの土地には、この5年以内にできたマンションが林立している。一方出遅れた感があるのが商業地開発である。

 新横浜に勤務、あるいは居住すると実感するのは買い物や食事の不便さである。一頃に比べ飲食店は増えたものの、昼間人口(2000年の国勢調査では港北区新横浜2丁目の昼間人口は21,660人、新横浜3丁目は16,943人)に対する数(2001年の事業所・企業統計では新横浜3丁目の卸売り、小売り、飲食店舗数は334事業所)は圧倒的に不足しており、昼食時には、角ごとに立つお弁当屋さんの屋台が街の風景になっている。食料品の購入はさらに不便で、最近までは主な購入先はプリンスぺぺ(プリンスホテル併設のショッピングセンター)のみの状況であった。現在はJRのガード下にビックカメラが出店し、また2008年の開業を目指し駅ビルの建設が始まった。この数年で、商業面での遅れが目立つ新横浜駅前の状況も、駅ビル開発や大型店の出店などで一変するであろう。

                                 【釜利谷高校 井上 達也】


図1 新横浜駅ビルの完成予想図  2008年の完成を目指し、現在着々と工事が進む。


写真1 新横浜駅前駅ビルの建設が着工された当時の新横浜駅前。(2005年8月撮影)



写真2 新横浜駅の新幹線ホーム  2008年3月のダイア改正で新横浜にはすべての「のぞみ」「ひかり」が停車しアクセスが良くなった。(2006年7月撮影)



写真3 完成間近の新横浜駅ビル (2008年3月撮影)



写真4 新横浜駅周辺のビル群 (2008年3月撮影)


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