県央・県北地区No6-13 南部中心地としての機能が集積してきている相模大野(相模原市)

 

1.軍施設移転に伴う相模大野周辺の開発

小田急小田原線と江ノ島線の分岐駅である相模大野駅周辺地域は、1938(昭和13)年に陸軍通信学校、1940(昭和15)年に陸軍病院など軍施設が作られてから駅周辺の開発がすすめられた。戦後、通信学校跡は相模女子大学に、陸軍病院は米軍によって接収され医療センターになり、ベトナム戦争の時には、数多くの傷病兵がここに運ばれてきた。

高度経済成長期以降は、都心への交通の便が良いため、東京のベッドタウンとして宅地化が急速に進展した。そして、相模原市の急激な人口増加に伴う発展とともに、相模原市南部における中心市街地として、商業や交通の中心地として発展してきていた。しかし、早い時期に宅地化された駅周辺の地域などでは、計画的な開発がされなかったためか、狭い道路が多く、人口増加に伴い駅周辺の混雑は激しいものになっていた。1980年ころには、駅周辺の再開発事業が急務なものとなっていたが、駅北口側に広大な敷地を有していた米軍医療センターの存在もあり再開発事業がなかなか進まなかった。一方駅南口側は、個人商店を中心とする小規模な商店街と閑静な住宅地、雑木林が残った地域であった。


2.北口の米軍医療センター跡地利用と相模原市南部地域拠点地区機能の整備

 1981(昭和56)年に返還された医療センター跡地は、相模大野駅からの利便が良いため、国用地・県用地・市用地に分けられ様々な利用が計画実施された。1985年から1990年にかけて県立相模大野高校(現在は相模原中等教育学校を併設)、都市基盤整備公団(現UR都市機構)の高層住宅ロビーシティ相模大野、外務省官舎や研修所、文化施設グリーンホール、伊勢丹相模大野店などが建設され、周辺の景観が大きく変貌していった。



写真1 相模大野中央公園と伊勢丹・グリーンホール

現在、相模原市の政令指定都市移行を見据え、医療センター跡地の南西側の行幸道路沿いの市南合同庁舎を中心とする地域は、南区の行政中心地として区役所設置などが進められている。


3.発展する相模大野の商業機能

 1996年に駅舎の建て替えが完成し、11月には駅ビル相模大野ミロード(現ステーションスクエア)が開業した。それまでの駅北口側は、多くのバス路線が発着するにもかかわらず、道路が狭く、駅周辺は交通渋滞がひどかった。駅舎の建て替えと並行して行われた、再開発事業・区画整理事業によってバスターミナルと道路が整備され、激しい渋滞はかなり緩和された。また、駅ビルと伊勢丹をつなぐ通路(コリドー)沿いを中心に、テナントビルなどが建設され、休日などには多くの買い物客でにぎわうようになった。伊勢丹と駅ビルの建設に伴う小売を中心とする商業機能の集積により、それまで1駅隣の町田へ買い物に行っていた人たちが、相模大野で買い物をするようになるなど集客力をつけてきている。

かつて商店街の中心であった相模大野銀座界隈や西友ストアー跡地付近は、1990年代には、場外馬券売り場(ウインズ)、次に高島屋が進出して再開発を進める計画があったが、いずれも撤回された。その後、「相模大野駅西側地区再開発事業」として、2010年には、シネマコンプレックスを含む大型ショッピングモールと高層マンション2棟(25階建,24階建)の建設が予定されている。また、2008年には、駅前からのバス通り出口付近にあったボーリング場が、高層マンションに建て替えられるなど、新たな再開発事業も徐々に進められるようになった。

【青少年センター 安田 直樹】


写真2 駅北口から伊勢丹へ通じるコリドー



写真3 相模大野ステーションスクエア


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