湘南地区 No.4-6 大磯における別荘地・邸宅の変化 その2 (大磯町)

2008年8月作成

 

1.保存が模索された旧三井守之助邸

 2002年、大磯駅の南側にあった旧三井守之助邸に、マンション建設の話が起きた。三井守之助は、三井銀行の取締役を務めた三井一族の一員である。昭和2年に建設された旧三井邸は、建物の保存状態もよく当時の様子を大磯でも残り少なっている本格的な別荘建築であった。

 このため地元の有志が保存のための活動を始め、買い取り資金の調達を目指し広く募金を呼びかけたほか、大磯町に対しても町で買い取りと保存をするよう強く要望した。そのためのPR活動として2回にわたり見学会を開催し、外観だけでなく屋内にも入って和洋折衷のスタイルの建築様式や凝った調度を具体的に見ることが出来た。この見学会に通じて旧三井邸の保存を望む声が高まり、大磯町でも買収を具体的に検討したが売り手との価格の折り合いがつかず、保存は断念した。

 2003年に建物が解体されたが、その部材は保存されている。現在、跡地はマンションになっている。


2.営業を停止し、所有者が変わった滄浪閣

 伊藤博文の別荘であった滄浪閣は、伊藤家の所有から大正時代末には朝鮮王家の李家の別荘となり、第二次世界大戦は何人かの所有者を経て1951(昭和26)年に西武鉄道の所有となり、後に大磯プリンスホテル別館となり、1964(昭和39)年には中華料理を提供する最近までの形態になった。1992年には大規模なバンケットホールを西側に新設したが、バブル経済の崩壊の時期とも重なり利用者が伸び悩んだ。プリンスホテル全体でのリストラ策の中で、大磯プリンスは本館のみに集約し、滄浪閣は営業を2007年3月末で停止することになった。

 西武グループは、営業終了後に滄浪閣を売却するとの方針を示したので、滄浪閣が保存されるかどうかは新しい所有者次第となった。このため、大磯町は滄浪閣を買収する方針を固めて優先的に交渉する権利を獲得して交渉に臨んだが、価格の折り合いがつかず買収を断念した。

 その後、ここを買い取ったのは老人介護福祉事業の経営者であった。新しい所有者は、伊藤博文ゆかりの部分は保存し、1992年に建設したバンケットホールの部分については、解体して新たに老人介護施設を建設する計画を示している。


3.県立公園として整備されることになった旧吉田邸

 ワンマン首相で知られる吉田茂も大磯に居を構えた一人である。もともと吉田の養父が手に入れた土地に幼い頃から住んでいたが、現在の建物は1956(昭和26)年彼が建てたもので、当時の有名な政治家が「大磯詣で」をするなど、戦後の日本政治の舞台ともなった建物である。1967年に吉田が亡くなった後、西武鉄道が購入して大磯プリンスホテル別館となっていたが、ホテルの一部としての活用は限定的であり、保存そのものが目的となっていた。しかしプリンスホテル全体でのリストラ策の一環として、売却年間の維持費がかかりすぎる吉田邸を処分する方針を固めた。

これを受けて大磯町では買い取りを含めて検討し、国や県に買収を要請するなど、保存を目指して積極的に行動し、最終的には県立公園として国道一号線を挟んで北側に広がる県立城山(じょうやま)公園と一体化して整備されることに決まった。ちなみに、県立城山公園は三井本家の別荘「城山荘」の跡地であり、主要な建物は取り壊されたり移築されており、当時の建物として残っているのは倉庫程度である。



写真1 旧三井守之助邸の見学会の様子(2002年撮影) 門の前で見学会に並ぶ人々 




写真2 旧三井守之助邸の玄関付近(2002年撮影)  現在は解体され、マンションとなっている。





写真3 旧三井守之助邸を南から望む (2002年撮影)  半円形の塔状の張り出しや屋根の凸部に注目。




写真4 営業停止を間近に控えた滄浪閣 (2006年撮影)



写真5  滄浪閣で、伊藤が居間として使っていた「松の間」 (2006年撮影)   閣議が開かれたこともある。


     



写真6 滄浪閣の洋室部分 (2006年撮影)  このうち「牡丹の間」は伊藤の書斎であった。李王家が所有していた大正末にかなり手が入れられたと思われ、伊藤が使っていた時代とは体裁が異なっている。




写真7 旧吉田邸の正門 (2008年撮影)  現在は、原則として一般には非公開。将来は、県立公園として整備されることになった。


       【県立鶴嶺高校 能勢博之】

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