湘南地区 No.4-5 大磯における別荘地・邸宅の変化 その1 (大磯町)

2008年8月作成

 

1.明治時代に別荘地化した大磯

 大磯は、明治時代から昭和初期にかけて避暑地・避寒地として日本有数の別荘地となり、当時の政財界の主だった人々は競って大磯に別荘を建てた。特に1896(明治29)年に別荘「滄浪閣」を大磯に建てた伊藤博文は、のちに籍も大磯に移して大磯町民になった。このため閣議が大磯の滄浪閣で開かれることもあった。

 また、鎌倉と並んで日本最初の海水浴場となり、夏の間は現在の軽井沢に似て東京の有名店が夏季限定で大磯に出店するなどして、国道一号線は観光客であふれかえったという。大磯では夏の間に一儲けすることができたといい、海の家(かつては海水茶屋といった)や旅館をはじめ、一般の家でも夏の間だけ貸間をしたほどだった。大磯駅前のバス乗り場の中央にある植え込みの中に、明治41年に日本新聞社が行った避暑地の投票で第一位となったことを記念する碑がある。

 ところが関東大地震により、海水浴場の中心であった照ヶ崎海岸が隆起して岩場が出現し、海水浴場は現在の北浜海岸などに移動せざるをえなかった。また、第二次世界大戦後は海水浴の中心が藤沢市の鵠沼や片瀬に移ってしまい、大磯の海水浴場はかつての賑わいを失っていった。また別荘地としても、軽井沢などが開発され、別荘地としての魅力も衰退した。

 その後、別荘の所有者は変化しているものが多いが、当時の建造物も残っている(写真2~3)。当時のまま保存されているものは、企業の所有となっている場合が多い。また、別荘跡が細分化されて宅地化された場所も多い。


2.大規模集合住宅ができはじめた大磯

 大磯町では、かつての別荘地が売りに出されても大規模な集合住宅の建設はほとんどなく、以前からの町並みを比較的よく保ってきた。これは町が、「大磯町開発指導要綱」で、事業者に近隣住民の同意書を取り付けることを義務づけていたためである。しかし、この要綱は行政指導のための要綱であり、事実上は事業者へのお願いにしか過ぎないため、一部では大規模集合住宅の建設が強行されたことももあった。

 ところが、当時の建設省が各地方自治体に対して、行政指導による規制を止めるようにいう指導を行ったので、大磯町でも前述の指導要綱をもとに2002(平成14)年に「大磯町まちづくり条例」が制定された。この条例では、「大磯らしさ」を維持するために、対象となる開発区域面積の最低限度を引き下げ、日照権に関する建築制限も県の基準よりも厳しくしているのが特徴である。また大規模な住宅開発の許可の条件が変わり、近隣住民の同意書の取り付けが廃止される一方、町民の意見をふまえて町と事業者が同意・協定書の締結を行い開発許可へ進むという手順になり、手続きの公正化・透明化がはかられた。この条例が制定されてからは、法律と条例の内容を満たせば、開発へと進みやすくなった。この結果、別荘跡地を利用した大規模マンションが建設されるようになった。佐賀藩主であった鍋島邸跡の大磯プレイス(写真4)、保存運動で町内の議論を呼んだ旧三井守之助邸のユニーブル大磯などがこれにあたる。現在、駅前にある別荘跡地(写真5)でマンション開発が予定されている。


写真1 大磯駅前にある、避暑地の投票で第一位に選ばれたことを示す記念碑 。(2008年撮影)

           



写真2 大磯駅前にある、旧山口勝蔵邸を活用したレストラン。明治末~大正初期に建造されたもの。(2008年撮影)




写真3 大磯町西小磯にある旧梨本宮守正邸 夫人の伊都子は鍋島家から嫁いだ。また、娘の方子(まさこ)は朝鮮王家に嫁いだ。(2007年撮影)



写真4 鍋島邸あとに作られた大規模なマンション  手前の松は、旧東海道の松並木。(2004年撮影)



写真5 大磯駅前にある、別荘跡地にマンションが建設される予定の場所。ホームから見えるこの石垣の保存を巡り、様々な意見がある。(2008年撮影)




【県立鶴嶺高校 能勢博之】

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