横浜地区No1-13   壮大な実験の港北ニュータウン計画(都筑区)

 2010年4月作成

 

1.横浜の「六大事業」を発表

 日本の「黄金時代」と言われる高度経済成長期の1965(昭和40)年、横浜市は「六大事業プラン」を策定し、大都市ヨコハマの未来図を描いた。当時の横浜市は1年間に10万人単位で地方から人口が多数流入し、その受け入れ態勢が不十分で東京と同じく様々な都市問題を抱えていた。この計画はその解決策として打ち出されたたプロジェクトで、当時としては斬新なプランで各界から注目された。  

 港北ニュータウン計画もこの一環として横浜市が中心となって推進し、田畑や雑木林が展開する横浜北部の多摩丘陵を開発して21世紀の新しい街づくりをめざすユニークな試みであった。

 その特徴は①乱開発の防止、②都市と農業の調和、③市民参加のまち作りの3点にあり、横浜市や神奈川県、日本住宅公団(現在は都市再生機構)、民間ディベロッパー、地元地権者などが総力を結集して推進した。


2.アメニティー重視のニュータウン計画

 最初に宅地・道路・公共施設・商業地などの区割りを計画的に行い、アメニティーを重視した歩行者専用の緑道・公園などゆとりのあるスペースを確保し、公園近くに老人ホーム・障害者施設・保育園などを配置していく。事業は順調に推移し、1983年には最初の入居者が生活をスタートさせ、市営地下鉄ブルーライン線の開通(1993年)や幹線道路の完成などで、インフラ整備も順調に進んで新住民が増加の一途をたどっていく。

 1994(平成6)年には、港北ニュータウンを丸ごと含んだ新区の「都筑区」が誕生し、区役所・警察署・病院などの施設が建設されていった。やがて、第三京浜道路の都筑ICが開通(1995年)し、3年後には東名高速道路の横浜青葉ICも開通する。そして、2008年には待望の市営地下鉄グリーンライン開通により、交通のアクセスが飛躍的に向上して「横浜の副都心」が姿を現してきた。さらに、東急(センター南駅前)や阪急(センター北駅前)などを核とする商業施設も続々とオープンして活気にあふれる街となっていく。オンワードや新日本石油などの企業の研究所や研修所、横浜歴史博物館や図書館などの文化施設、東京都市大学(旧 武蔵工業大学)や東京・横浜独逸学園、そして小中学校や高校も建設され、公園の整備と共に潤いと安らぎのある快適な環境のニュータウンが完成した。

 一方で旧住民の農家の活動を宅地開発から守るために、横浜市は「農業専用地区」を港北ニュータウン内にも設定し、市民に新鮮な野菜や果物などを提供している。「新羽・大熊農業専用地区」は都筑区と港北区にまたがる貴重なオープンスペースで災害時の避難場所としての防災協力農地に指定されている。


3.住民が主人公の街をめざす

 港北ニュータウンの位置は横浜市中心部から約12km、東京都心から約25kmの距離にあり、東海道新幹線の新横浜駅や羽田空港にも近いという立地条件から「緑と文化とゆとりある街」として人気を集め、日本各地から様々な人々が移住しているが、特に関西地方からの転勤者が多いと言われている。現在では2530haの敷地に約15万人が生活する日本有数のニュータウンへ

 大きく成長し、入居希望者は今も少なくない。

  住民相互の交流とふれあいを目的に「市民参加のまちづくり」も特徴の1つで、「港北ニュータウン事業推進連絡協議会」を設置し、人々の意見や要望を集めて話し合い、施策に反映させている。また、河川や森林、植物などを守る自然保護団体も結成され、熱心に活動している。

 かつて、「横浜のチベット」と呼ばれた北部の丘陵地帯は、開港150年を迎えた横浜の新しい拠点として着実に発展している。

【二宮高校  比佐 隆三】



写真1 市営地下鉄「グリーンライン」



写真2 センター南駅前


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