川崎地区No2-11 大きく変貌した町・溝口(高津区)

2009年1月作成

 

1.南武線と東急田園都市線の結節点

ミゾとは段丘崖の下に刻まれた小さな河谷を言うが呼ぶことが多い。この付近を流れる平瀬川のつくる小河谷を指し、多摩川の沖積低地にでる。「溝口」はミゾノクチと読み、市の行政地名である。JR南武線の駅名や郵便局名は「溝ノ口」が使われている。江戸時代には「溝の口村」、明治になって「溝ノ口」と表記し、公式文書はすべて「溝口」となっている。

そんな溝口は江戸時代から大山街道の宿場として栄えてきた。大山街道はかつて静岡のお茶や秦野のタバコ、相模川の鮎などを江戸に運ぶ商業ルートでもあり、そんな由来から、この地区の大山街道沿いには江戸時代、明治時代に開業したという古い商家が残されて、歴史を今に伝えている。現存しているもので灰吹屋薬局は、江戸時代に鈴木仁兵衛が創業し、街道で唯一の薬屋として繁盛していた。店の隣には蔵がある。タナカヤ呉服店は、土蔵造りの店と土蔵を組み合わせた建物で店の背後に母屋がある。二階の窓には千本格子があり、伝統的な店造りとなっている。

またこの地域は偉大なる文化人の生誕地(作家・岡本かの子、陶芸家・濱田庄司)でもあり、岡本かの子文学碑は1962年11月1日、建築家丹下健三の設計により建てられた。母かの子を追悼する岡本太郎作『誇り』、歌碑撰文は亀井勝一郎、川端康成の書によって、二子神社境内に建てられ、かの子の歌「年年にわが悲しみは深くしていよよ華やぐ命なりけり」の歌がある。2003年度より大山街道活性化推進協議会が発足され、大山街道景観・文化保存が推進されている。


写真1 灰吹屋薬局の蔵



写真2 タナカヤ呉服店の土蔵と店舗


2.工場の町から副都心へ

溝口には、1940年に軍需工場として日本工学が建設された。戦後、日本工学の跡地は学校(洗足学園・川崎市立高津中学・高津高校)や工場・住宅など多目的に利用された。駅からの至近距離に東芝玉川(→1982年パークシティ溝の口に)、日本電気(→2006年タワー&パークス田園都市溝の口に)、ミツトヨ(現存)などの大企業が進出している。

また時代とともに先端技術産業の研究開発が進み、1986年の民活法適用第1号を受けて

1989年には、駅から東南の少し離れた場所(池貝鐵工所跡)に「かながわサイエンスパーク(略称KSP)」が誕生した。KSPは次代を担う企業家の育成をめざし神奈川県と川崎市、民間企業が共同で作った日本初の研究施設である。


写真3 かながわサイエンスパーク


3.駅前再開発

駅前の大規模な再開発が始まったのは、バブル崩壊後の1994年であった。北口の再開発ビル、Nocty(ノクティー、みぞのくちより命名)が1998年に完成し、この駅ビルには地元商店街のほか、丸井や高津市民館も入り、駅前の風景を大きく変えた。そして武蔵溝ノ口駅からのペデストリアンデッキ(正式名称はキラリデッキ)や南北方向の自由通路の完成で北口の再開発は1999年に事業完了となった。

この再開発事業により、道路網や広いバスターミナルも再編成された。路線バスを含めた自動車の渋滞は大幅に改善した。


写真4 再開発された武蔵溝ノ口駅前

【旭高校 橋本達也】

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