横須賀三浦地区3-1 一大観光地だった三浦海岸 (三浦市)

2008年6月作成

 

1 京浜急行主導のビーチリゾート

 かつて三浦海岸駅では、大量の観光客によって入場規制が行われていた。京浜地区と三浦半島を結ぶ車も当時は国道16号線に集中し、渋滞は磯子区あたりから横須賀市を貫いていた。海岸には海の家が隙間なく立ち並び、砂浜を海水浴客が埋め尽くしていた。地引網なども家族連れを中心に盛んに行われていた。当時、東京湾岸はすでに埋め立てにより砂浜はほぼ消滅しており、この地域は東京・横浜近郊の最大の海水浴場となっていた。

1958(昭和33)年からのいわゆる岩戸景気により、日本は高度経済成長に突入し、同時にレジャーブームも到来した。その頃三浦半島では、京浜急行が久里浜以南への鉄道路線延長を開始し、1963年には京浜久里浜(現京急久里浜)から野比(現YRP野比)へ、さらに1966年には三浦海岸まで開業し、三浦市に初めて鉄道が乗り入れた。

これに合わせ京浜急行は、野比から三浦海岸までを「青いデイトナビーチ」と呼び、一大キャンペーンを展開した。ちなみに、デイトナビーチはアメリカフロリダ州にあり、広大な砂浜で知られる観光地である。京浜急行では三浦海岸フェスティバルを開催し、それに合わせ、品川から三浦海岸まで直通させ芸能人も乗せた「みうらビーチ号」等の観光列車も運転した。

施設面でも、多くの直営観光施設を作り、沿線の観光開発に乗り出した。1965年に津久井浜駅裏の丘にホテルケープシャトーを開業、1969年には海岸に面したビーチセンター、1973年には武山の麓にフィールドアーチェリーをオープンさせた。また、1960年代に入り造成された津久井浜の観光農園も、1968年から京浜急行がタイアップを始め、当初のみかん狩りに加えいちご狩りやいも掘りなど規模を拡大していった。こうして、津久井浜から三浦海岸にかけて、県内でも有数の一大観光地が形成されたのである。


2.レジャーの変質と観光地の衰退

 1973(昭和48)年の第一次オイルショック以後、レジャーブームは一気に下降線をたどった。さらに、バブル景気が発生した後も、今度はレジャーの大型化多様化が進み、観光客は北海道や沖縄、海外へも手軽に出かけるようになり、かつて駅に溢れていた観光客がこの地域に戻ることはなかった。海岸に立ち並んでいた海の家も年々減り続け、今では三浦海岸駅周辺にかつての半数以下になった。2000年前後には、京浜急行がこの地域に作った観光施設は全て休業、閉鎖に追い込まれ、その跡は、ビーチセンターが駐車場になった他は何も利用されていない。

 バブル期に唯一、この地域に登場した「バブル的レジャー施設」は、三浦海岸を見下ろす台地上に建てられた「マホロバ・マインズ三浦」である。最初は高級リゾートマンションとして建設されたが、バブル崩壊により販売が振るわず、リゾートホテルとして再スタートしている。施設の質の割には安価でサービス提供をしており、値ごろ感からそれなりには客を集めているようである。畑地中心の平坦な三浦台地では目立った建築物となっている。また、最近では京浜急行を使った通勤圏となり、三浦海岸駅近くは宅地化が進んでいる。

【県立津久井浜高校 野本聡】


写真1 津久井浜駅前の観光農園の看板 (2007年12月撮影)

 


写真2 津久井浜観光農園のイチゴ狩り風景(2009年1月撮影)



写真3 京急車窓より見たマホロバ・マインズ三浦(2009年3月撮影)



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