横須賀三浦地区3-6 まぐろの町三浦の将来は?(三浦市) 

(2010年1月作成)

 

1.あくまでも「まぐろの町」?

 三崎港に行けばそこらにあふれる「まぐろ」の看板、のぼりが目に入る。確かにかつて三崎は、全国屈指の「まぐろの町」であった。1950年代には全国のマグロ船の半分は三崎港に水揚げをしていた。三崎魚市場での漁獲取扱量は、1968(昭和43)年にピークの約95,000tとなった。しかし、1973年のオイルショックの影響から1976年には20%の減船を強いられ、さらに1977年に200海里漁業専管水域が設定されて、遠洋漁業は大きな打撃を受けた。これにともない三崎の水揚高も減少し、仲買人の数も減っていった。

最近の農林水産省の水産物流通調査によれば、2006年度のまぐろ(ほんまぐろ)水揚高は冷凍・生鮮合わせても三崎は境、焼津、塩釜に次ぐ第4位である。特に、冷凍まぐろの水揚げされる漁港は全国でほぼ焼津と三崎に限られるが、その量は今やほんまぐろに限っては、三崎は焼津のわずか5分の1であり、びんなが・めばち・きはだなどを含めても半分以下となっている。やはり、東西の大動脈東名高速に直結している焼津は全国への流通にも適しており、観光客も来やすいのである。もはや、遠洋まぐろ漁船の着く港は三崎ではなく焼津なのである。まあ、それ以前に、現在ではまぐろは大手商社によって直接船ごと買い付けられ東京港などの大手消費地に直接行ってしまうか、さらには地中海辺りで獲ったまぐろが飛行機で成田へ飛んでくるのではあるが。

三崎の遠洋漁業の衰退とともに、三崎の町そのものも着実に寂れていき、国勢調査では1995年の54152人をピークに人口は減少し、2005年では49861人と10年で約1割減少している。そのように、三浦市全体がここ久しく人口減少に歯止めがかからない状態であるが、特に三崎港周辺のいわゆる下町地区は、京浜急行への便も悪いため人口流出も著しく、平日昼間はほとんど人通りも見られず、シャッター商店街の典型的な姿を見せている。ちなみに、遠洋漁業の担い手を育成してきた神奈川県唯一の水産高校は、横須賀に移転してからもずっと「三崎水産高校」を名乗っていたが、高校再編の中で「海洋科学高校」に改名し、一次産業からのイメージチェンジを図っているようである。しかし、海洋科学高校の大型実習船「湘南丸」の母港は未だに三崎港であり、他県の高校の実習船もその姿を時折三崎で見ることができる。


写真1 停泊中の実習船湘南丸



写真2 マグロの水揚げ


2.「まぐろ離れ」の道はどこへ

まぐろの町としての歴史は古いが、かつてほどの集客力はすでになくなっている。現在、この打開策には二つの方向が見られる。一つは、あくまでも三崎はまぐろでいく、という道である。地元商店街の有志が「みさきまぐろくらぶ」を結成し、新商品の開発やイベントの実施によりまぐろの可能性を広げようとしている。肉まん風の「とろまん」をはじめまぐろラーメンなどを販売しているが、実際のところは今一つパッとしていないのが現実である。もう一つは、まぐろ以外に活路を見出すという方向である。同じ水産業でも、松輪のサバをブランド化して売り込みをはかったり、三崎や金田(かねだ)の朝市では新鮮な地魚を安く販売し、京浜地区からの客を早朝から集めている。この戦略は、三浦市のもう一つの主要産業の大都市からの近さを利用した近郊農業に似た「近郊水産業」的に成功していると考えられる。

 近年のもう一つの観光パターンは「散歩」である。シルバーエイジを中心に、なにげなく町をぶらぶら歩くというのが密かにブームになりつつある。そこで見直されてきたのが、三崎の忘れられていた景色なのである。港町特有の細い路地の奥には、昔栄えた姿をしのばせる小さな蔵がいくつも存在している。風が強く建物が密集していた三崎には火災が多かったため防災上蔵が発達した。そんな古き佳きたたずまいなどを陽光溢れる海岸線と併せて散策するのは、これからの観光の柱になりそうな気もする。1994年には、三浦市が下町地区についての「港町ルネサンス構想」も発表している。最近、学園ものでよく利用される三崎高校跡地とも合わせて、映画のロケ地として使われることも多くなってきているようである。

【県立津久井浜高校 野本聡】


写真3 蔵のある三崎の町並み


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