横浜地区No1-1 横浜の歴史を物語る久保山墓地(西区)

 

2007年11月作成

 

1.吉田勘兵衛一族の墓

 久保山墓地には吉田新田を築いた吉田勘兵衛とその一族の墓がある。吉田新田は、大岡川と中村川に囲まれた埋め立て地で、地形図で見ると釣り鐘のような形をしている。1656年(明暦2年)、勘兵衛は幕府から新田の開発許可を得て、工事は翌年より開始された。おさんと言う女性が人柱となった、という伝説(横浜市民にはよく知られた話だが、もちろん歴史的事実ではない)が生まれるほどの難工事で、約8000両の巨費と8年の歳月をかけ工事は完成した。

 久保山墓地が建設されたのは1874年(明治7年)のこと。明治のはじめに市街地の墓地は不衛生で、また景観を損ねるとの理由から、野毛や長者町にあったお寺などの墓地を移転することになり、久保山に共葬墓地がつくられた。この時に、吉田家の墓も移された。

 吉田といえば、吉田茂元首相の養父吉田健三の墓もある。同じ吉田姓ではあるが勘兵衛とは関わりはない。吉田健三は横浜の実業家で、自由党の幹部でもあった。だが、健三には跡継ぎがいなかったため、友人でまた同じ自由党員の竹内綱(板垣退助とともに自由党を結成した中心人物の一人)の五男を養子とした。その子が吉田茂である。茂は1881年に吉田家の養子となり、幼年時代は横浜で育ち、現在の横浜市立太田小学校で学んだ。


2.戊辰戦争の戦死者の墓地

 久保山墓地の一角には、明治新政府軍と旧幕府軍との戦い(戊辰戦争)で戦死した長州・土佐藩士も埋葬されている。これらの墓も吉田家の墓同様、共葬墓地の設置と共に移転してきたものである。では、なぜ彼らの墓が横浜にあるのか。当時の日本は、医療のレベルが低く、戦地で傷ついた兵隊はなかなか助かることがなかった。そこで、維新政府は、高い医療技術をもつ外国人が住む横浜に軍陣病院を設置し、負傷者の手当を行った。そして、治療の甲斐なく戦死したものは、故郷に帰ることなく横浜の寺院に埋葬された。このように、久保山墓地には、横浜のみならず日本の歴史に関わる史跡がある。


3.関東大震災と横浜大空襲

 1923年9月1日、相模湾を震源とする大地震によって横浜市の市街地、商業地域、港湾施設は壊滅的な打撃を受けた。死者も2万5千人に達し、そのうちの無縁仏約3300体が久保山墓地に埋葬されている。また、震災時のデマが元で、横浜市内の各所で朝鮮人が虐殺された。虐殺された人々を慰霊するため、戦後になって朝鮮人の供養塔も墓地内に建設された。

 太平洋戦争中、久保山には高射砲陣地が置かれた。1945年5月29日の横浜大空襲の日、黄金町から久保山にいたる地域に対し無数の焼夷弾が投下され、市街地のほとんどが焼失した。避難し遅れた人が大岡川に飛び込み、大岡川には死体が浮かび、また黄金町から霞橋にいたる関東学院の坂には、逃げ遅れた人々の焼死体が点々としていたという。遺体の仮安置所となったのは、墓地に隣接する円覚寺であった。

 戦後には、巣鴨プリズン(旧東京拘置所、現在の池袋サンシャインシティ)で処刑された東条英機元首相らの遺体がGHQによって密かに運び込まれ、久保山で火葬されている。

                                     【釜利谷高校 井上 達也】


写真1 吉田勘兵衛一族の墓



写真2 長州藩士の墓



写真3 関東大震災の朝鮮人慰霊碑




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