西湘地区No.5-1 趣ある建物が急減する国府津(こうづ)駅前(小田原市)
2007年12月作成
西湘地区No.5-1 趣ある建物が急減する国府津(こうづ)駅前(小田原市)
2007年12月作成
1.鉄道の町として栄えた国府津
JR国府津駅は、1887(明治20)年に東海道線が横浜駅(現在の横浜駅とは異なる)から国府津駅まで開通した際に開業した。そのすぐ2年後には、東海道線が現在の御殿場線のルート(山北・御殿場経由)で静岡まで開業するが、御殿場駅までの急勾配区間用に国府津駅で補助機関車を連結した。このために国府津には機関庫が設けられ、一大鉄道基地として重要な役割を果たすようになった。さらに、1925(大正14)年には横浜・国府津間が電化され、国府津駅で電気機関車と蒸気機関車を交換するようになり、さらに活況を呈するようになった。
しかしこの急勾配は輸送上のネックとなり、1934(昭和9)年には熱海と函南の間に丹那トンネルが開通して熱海経由のほうが東海道線に、御殿場経由の旧線が御殿場線となった。熱海経由の新線は、平坦でありしかも最初から電化されていたため、補助機関車の連結や機関車の交換も特に必要なくなり国府津機関庫の重要性は低下したという。しかし、国府津機関庫は御殿場線と東海道線の機関車の基地としての役割を果たし続け、国府津は鉄道の町として栄えた。
また、国府津駅前には明治21年創業の旅館「国府津館」があり、伊藤博文をはじめとする明治の政財人が訪れた記録が残っている。かつては現在よりも建物が大きく料亭でもあったため、国府津館に泊まりに来たり、大磯や小田原に別荘を構えた人が食事に訪れていた。今でも館内には、西園寺公望・渋沢栄一・山本五十六などの書が掲げられている。
2.レトロな魅力あふれる国府津駅前商店街
国府津駅周辺には鉄道省(→国鉄→JR)の職員の住宅が並び、鉄道職員やその家族を主な客とする商店街が東海道(国道1号線)に形成された。1923年の関東大地震により大きな被害を受けたため、その復興の際には道路の拡幅も行われた。その前後に建築された「出桁造り(だしげたづくり)」や「看板建築」と呼ばれる建物は、戦災を免れてつい最近まで多数残っていたが、老朽化のため急速に数を減らしている。
「出桁造り」は商家の和風建築として昭和初期にかけて建築された。現在は店を閉めている所が多いが、国府津にはまだこのような建物が残っている。これに対して「看板建築」は関東大震災以降に主に建設され、木造であるが通りに面した部分を平面にしてモルタル(またはその上から銅板などを覆うこともある)を使って仕上げ、場合によってはモルタルで凝った装飾が施される場合もあった。看板建築といっても、看板を作りつけにしたものではない。またこのほかに、同じ頃作られた洋風の建築物もある。
2002(平成14)年度に小田原市が行った「国府津地区国道1号周辺まちなみ調査」でこれらの建物の重要性が示されると、地元の意識も変わった。商店街(国府津商工振興会)では街並みの保存やイベントの開催を行うなど、これらの建物を積極的に活かそうという機運が高まった。その後、老朽化したアーケードが撤去されて商店街の雰囲気も大きく変化した。国土交通省による電線の地中化工事も進められる一方で、老朽化する出桁造りや看板建築の減少は急ピッチで進んでいる。
【県立鶴嶺高校 能勢博之】
写真1 出桁造りの建物の例
左端の赤茶色の建物との間に一軒あって右端の建物
写真2 看板建築の例
写真3 看板建築の一種で、一階部分が出桁造りのように張り出している。後部が木造であることがわかる。
写真4 看板建築に近い様式のビル。前面上部にレリーフが見られるなど凝った造りである。
写真はすべて2007年6月撮影