横浜地区No1-8  関内の近代洋風建築と北仲通地区の再開発(中区)


2008年10月作成

 

1.消えゆく矢部又吉設計の建造物

 昨年末から今年(2007〜08年)にかけて、昭和初期から終戦直後に建設された横浜の建造物が、再開発などを理由に、次々と取り壊されている。横浜スタジアム一塁側スタンドと、道を隔て建っていたストロングビルもその一つ。ストロングビルは、横浜市出身の矢部又吉の設計で、1938(昭和13)年(横浜市都市整備局のHP参照)に建てられた。戦前建築のオフィスビルは横浜市内では珍しく、2007年には横浜市歴史的建造物に認定された。跡地には、2009年の完成を目指しホテルが建築中で、低層部にはストロングビルの外壁が復元される。

 矢部又吉は同ビルの他に、旧三菱銀行横浜支店や旧日本火災横浜ビルを設計している。これらのビルは既に取り壊され、ストロングビルと同じく外壁(外観)のみが復元・保存されている。銀行をはじめとする、民間所有のビルの設計が多かった建築家の宿命とはいえ、彼の地元から作品群が次々と消えていくのは残念である。


写真1 現役当時のストロングビル(2005年11月撮影) 

 クリーム色の外壁は保存状態も良く、シンプルかつレトロな姿は、横浜観光の中心である中華街入口(玄武門横にあった)の顔にふさわしかった。



写真2 解体直前の姿(2007年9月) 足場が作られたこの直後、一気に解体された。


参考文献 横浜シティガイド協会編「ハマの建築探検」(神奈川新聞社2002年発行)


2.生糸検査所と帝蚕倉庫

 横浜港は開港当時から1950年代まで、生糸の輸出港として栄えた。今でも、生糸検査所(通称キーケン)やシルクセンターなど、絹に関わる地名や名称が、市民生活の日常に根付いている。その歴史を伝える、代表的な建築物である帝蚕倉庫ビル並びに倉庫群が、北仲通北地区の再開発によって姿を消す運命にある。

 帝蚕倉庫は、関東大震災(1923年)の復興施設であり、1926年に生糸検査所の付属施設として建てられた。事務所と倉庫からなる帝蚕倉庫群は、日本の鉄筋コンクリート建築の先駆者として知られる遠藤於菟が設計した。建設時は貨物列車の線路が引かれ、北関東や甲信越から直接この倉庫に生糸が運びこまれた。そして、生糸検査所で厳密な検査を受けた後、世界各国に輸出された。生糸検査所と帝蚕倉庫は、震災の復興を記念する横浜のシンボル的な建築物であった。だが、生糸検査所はすでに解体されており(跡地に国の合同庁舎が建つ)、かろうじて残った帝蚕倉庫の建物も再開発計画によって失われる。


参考文献 雑誌 有隣[第487号2008年6月]「座談会近代建築の先駆者 遠藤於菟と横浜」


3.北仲通地区の再開発

 北仲通地区はみなとみらい線の馬車道駅前にあり、横浜市が進めるMM21(みなとみらい21地区)に隣接する。再開発の主体は、六本木ヒルズなどの開発で知られる大手ディベロッパーの森ビルと、大和地所である。

 旧生糸検査所北仲通北地区の再開発の環境影響評価(アセスメント)準備書によれば、開発用地の敷地面積は約28,500平方mで、跡地にはオフィス、商業施設、ホテルおよび1250戸の住宅の建設が計画されている。完成すれば地上52階、約200mのビルと、地上44階約150mのビルが建つ予定である。帝蚕倉庫の一部を保存する形で再開発を進める。

 また、北仲通り地区に隣接する象の鼻地区も、来年(2009年)の横浜開港150周年に向けて、整備が進められている。象の鼻地区は、横浜開港当時の波止場があった場所で桟橋の形からこのように名付けられた。この整備事業に先だち、東西上屋倉庫が取り壊された。東西上屋倉庫は、海軍の飛行機格納庫を移築し倉庫として利用しており、緑色の屋根は戦後復興期の横浜港のシンボルであった。



写真3 帝蚕倉庫(2004年7月撮影)



写真4 大桟橋より象の鼻地区・北仲地区を臨む(1998年8月撮影)

 再開発によって約150m〜200mの高層建築物が建ち並ぶと、港の風景も一変するであろう。因みに中央に建つ横浜税関の塔(通称クィーンの塔)は52m。この3〜4倍の高さの建築物が画面右手に建ち並ぶ。ヒートアイランドや風害、電波障害など高層の建築物にともなう都市問題の対策も気になる点である。



写真5 東西上屋倉庫(2007年10月撮影)



写真6 整備が進む象の鼻地区(2008年8月撮影)



写真7 解体された後の帝蚕倉庫(2009年1月撮影)



写真8 北仲地区の再開発区域(2009年3月撮影)


【釜利谷高校 井上 達也】

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