湘南地区No.15 金目川(花水川)が作り出すさまざまな地形

2013年1月作成

 

1.天井川となっている金目川が作り出す地形


 秦野盆地から東へと流れてきた金目川(下流では通称「花水川」)は、平塚市金目で南へ約90度も向きを変える。このためこの付近は、土砂が堆積しやすく周囲よりも河床が高い「天井川」となっているので、古くから大雨の際にはしばしば決壊して大きな被害が生じてきた。徳川家康は鷹狩りのために1596年に中原御殿(平塚市中原)を築きしばしばこの付近を訪れていたことから、慶長13(1608)年に金目川で大規模な洪水が起きると翌年に約572mの堤を作らせ「大堤(おおづつみ)」または「御所様堤」と呼ばれるようになった。これが現在の北金目入口バス停付近から延びている堤防である。大堤は決壊と修復を繰り返してきた。

 南に向きを変えた金目川は比較的平坦な部分を蛇行しながら流れ、この付近で合流する鈴川や渋田川といった支流とともに自然堤防と後背湿地を形成した。自然堤防は周囲に比べてわずかに高いことから洪水の被害を受けにくく、古くから集落や畑、後には桑畑や果樹園として利用された。飯島、寺田縄などという字名は、自然堤防に由来することを伺わせる。一方、自然堤防以外の場所は後背湿地であり水田として利用されてきた。相模川と金目川の後背湿地が広がる平塚市は県内一の米生産量を誇っている。


2.元禄地震や宝永の噴火により洪水が多発


 江戸時代の元禄地震(1703年)の地盤の隆起による河床の上昇、宝永4(1707)年に起きた富士山の宝永噴火による大量の火山灰や軽石により、金目川流域では洪水が相次いた。

 このため、洪水の際に自然に流路が変わったり、洪水防止のため流路を直線化する筋替え(瀬替え)をした結果、流路は大きく変化した。支流との合流点を南に変更したり、金目川に注いでいた玉川を相模川に注がせるなど、大規模な工事も行われた。例えば、入野から南原にかけての金目川が直線的なのは、元禄時代に行われた筋替えのためである。

 また、東海道本通り(旧国道1号線)と国道1号線が合流する付近に「古花水」バス停があるが、このすぐ近くを暗渠化されて流れている小桜川が旧金目川の流路であり、平塚市と大磯町の境界となっている。このため、小桜川と(現在の)金目川に挟まれたJR相模貨物駅の付近は、平塚市ではなく大磯町となっている。

 そして、旧玉川(現在の渋田川)の一部が文化・文政年間(19世紀初)の洪水の際に流路が変わってしまい取り残されてできたのが、平塚市民病院の南にある達上(たんじょう)池であり、地形上は河跡湖(三日月湖)にあたる。

 このように金目川は、秦野盆地の扇状地を形成し、川の作り出すさまざまな地形を呈示してくれる貴重な河川である。

【県立小田原高校 能勢博之】



写真1 平塚市金目の大堤 徳川家康が改修して「大堤」あるいは「御所様堤」という名が付いた




写真2 標識に示された古花水橋交差点と平塚市・大磯町の市町境(暗渠化された小桜川が流れている)




写真3 河跡湖(三日月湖)である達上池 背後には平塚市民病院が見える


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