委員会報告(2011年11月) 

横浜市金沢区長浜・富岡および野島巡検

井上達也(県立釜利谷高等学校)

 

はじめに

 地域研究委員会では、昨年地理分科会・各委員の協力を得て、「変わりゆく神奈川県」を発行した。出版の目的は、21世紀以降も、日々変化する神奈川県の状況を記録することであった。

 本書発行後も、神奈川県内は変化が続いている。その状況については、地域研究委員会のホームページで、順次伝えていく予定である。だが、変化を追う一方で、神奈川の景観を形作る、その基盤となる歴史的要因を探ることもまた重要である。昨年8月、地域研究委員会では、磯子工業(定時制)の大胡先生の案内で、金沢区長浜・富岡および野島巡検を実施した。今回の巡検では、埋立てが進む以前の海岸線の様子、戦前の日本海軍の基地跡、伊藤博文の別邸などを訪ねた。かつて、風光明媚な海岸線、海軍の航空機開発の拠点など、横浜の戦前から昭和40年代頃までに思いを馳せつつ、今日の横浜の景観や産業とのつながりを訪ね歩いた。


1.かつての海岸線を行く


  写真1 直木三十五邸宅跡


 最初に訪れたのは、慶珊寺(富岡東四丁目)である。隣接する金沢シーサイドタウンには、高層の団地が建ち並んでいるが、昭和40年代の埋立て以前は、寺のすぐ目の前が海岸線であった。また、慶珊寺の北側にある、長昌寺の辺りは、かつての漁村で、冬場には海苔を干す風景が見られた。

 作家の直木三十五は風光明媚なこの富岡の地を気に入り、慶珊寺裏に邸宅を構えた。邸宅は老朽化したため、昨年6月に残念ながら取り壊された。なお、直木三十五の記念碑が、慶珊寺山門に向かって左手にあり、故人の功績を偲んでいる。

 山門の右手には「孫文先生上陸之地」の碑がある。1913年、第2革命に失敗した孫文が、日本に亡命した際、密かに上陸したのが富岡であったことを記念し、碑がたてられた。


  写真2 孫文上陸之地の碑


 続けて長昌寺付近の、かつての漁村の跡を訪ねた。今ではごく普通の住宅地で、説明がなければ見過ごしてしまうところである。「ここは漁業権を放棄した元漁師さんの経営するマンション」、「半農半漁の名残の広い敷地」など、説明を受けて初めて漁師の暮らしがあったことが分かる。ちなみに、大胡先生のご実家はこのあたりで、子どもの頃は海が遊び場だったそうだ。


2.海軍基地の跡地利用

 県立高校再編で、富岡高校と統合された旧県立東金沢高校(現・金沢特別支援学校、住宅地)の西側に広がる神奈川県警第一機動隊、日本飛行機杉田製作所、富岡総合公園は、かつての横浜海軍航空隊跡である。

 横浜海軍航空隊は、日本初の飛行艇部隊であり、大戦中は、南洋戦線をはじめ、太平洋の全域で活動した。富岡運動公園内には今も、海軍基地当時の、正門の門柱が残っている。戦後、戦死者の慰霊のために浜空神社がここに建てられたが、それも今はなく、神社の記念碑のみある。海軍の「軍都」横須賀に隣接する金沢区は、かつては軍関連の施設、工場が多かったが、戦後GHQに接収された後に民間に払い下げられ、現在は工場や学校、団地、公園などの用地として使用されている。

 次に、金沢区内を一気に南下し野島公園に向かった。


  写真3 横浜海軍航空隊記念碑


3.野島夕照(のじまのせきしょう)の今

 江戸時代、金沢八景はその名の通り景勝の地として知られた。東海道の保土ヶ谷宿から南に下り、金沢八景を見物した後、鎌倉、江の島を経て藤沢宿に抜ける道は、江戸の庶民の定番であった。埋立てられる昭和40年代以前、穏やかな気候の金沢区は、東京の行楽地・保養地として知られた。私も子どもの時、親に連れられ、海水浴や潮干狩りを楽しんだ記憶がある。

 伊藤博文は、この地を愛し、大日本帝国憲法の草案を金沢八景の旅館で書き、1898年には別邸を野島に建てた。伊藤の別邸は横浜市が復元し、2009年10月から一般に公開されている。皇族や明治の元勲等も訪問したこの建物は、日本の歴史のみならず、別荘地であった金沢の雰囲気を今に伝える貴重な建物といえる。

 野島公園内では、太平洋戦争末期に建設された掩体壕(えんたいごう)の遺構を見ることが出来る。掩体壕とは、旧海軍が建設した航空機の待避壕である。野島に隣接する日産追浜工場は、旧横須賀海軍航空隊基地跡に建つ。大戦末期、この基地の航空機100機あまりを空襲から守るために、1945年3月から6月末までのわずかな期間に、約260メートルのトンネルが建設された。敗戦により実際使われることは無かったとのことだが、掩体壕としては、当時最大級のものであり、市内では日吉の旧海軍壕などと共に、戦争を学べる遺跡として重要である。


4.長浜検疫所と野口英世博士


  写真4 旧長浜検疫所細菌検査室

 今回の巡検の最後に、野口英世博士ゆかりの旧長浜検疫所細菌検査室を訪ねた。検疫所は、横浜港に来航する船舶からの伝染病を未然に防ぐための施設である。長浜ホールのパンフレットによれば1899年、当時22才の野口博士は検疫医官補として5ヶ月間勤務し、ペスト菌患者発見にも功績を残したとのこと。野口博士の勤務した建物自体は、関東大震災で倒壊したが、その翌年再建された建物が現在保存、公開されている。なお、長浜ホールは、横浜検疫所長浜措置場の事務棟の外観を復元したもので、内部には音楽ホール、練習室などがあり市民に利用されている。

おわりに

 金沢区には、この他にも大日本帝国憲法の草案を記念した「憲法草創之処」の碑、言わずとしれた金沢文庫、称名寺もある。また、人工島の八景島、人工海浜の海の公園など、見所も多い。生徒を連れて、金沢区の歴史を軸に、鎌倉時代から今に至る地理巡検を計画するのも良いのでは?と今回のルートを歩いてみて感じた。


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