川崎地区No2-2 いすゞ自動車跡地と神奈川口構想(川崎区) 


2007年8月作成

 

1.いすゞ自動車の歴史 

 第一次世界大戦中、東京石川島造船所が、国産車の製造を計画し、1920年(大正9年)に深川区(現在は江東区)に工場を新設、自動車製造を開始した。その後、主要な供給先であった陸軍の要請により、1929年に石川島造船所の自動車製造部門が独立し、石川島自動車製作所が創立された。

 満州事変(1931年)をきっかけに軍事費が急増し、日本の重工業は活況を呈した。その後日中戦争が泥沼化し、自動車産業も軍需生産の比重が高まる中で、陸軍をはじめとする政府の要請(国策)を受けて企業の合併が実施された。石川島自動車製作所はダット自動車製造を合併し、㈱自動車工業となった。さらに、1937年には東京自動車工業が設立され、新会社に自動車工業と東京瓦斯電気工業自動車部が合流し、現在のいすゞ自動車の母体が出来上がった。


2.川崎工場の建設 

 戦時色が強まる中で、東京自動車工業は軍事用車輌の増産を求められた。1937年12月、川崎製造所の建設が、川崎市下殿町(当時)にある120,856平方メートルの広大な敷地で始まり、翌年7月には操業が開始された。太平洋戦争中には、労働力不足から同社全体で1,936名におよぶ徴用者が集められ、また朝鮮人徴用者も183名が川崎・鶴見・末吉の各工場に配属された。戦時下には空襲による多大な被害、工場の疎開などを経て、敗戦をむかえた。

 戦後になり、1949年にヂーゼル工業(1941年に東京自動車工業が改名)は、トラックの商標名であったいすゞ自動車に社名変更し、再出発した。川崎製造所は、1958年に隣接する多摩川河口の埋立地(195,929平方メートル)を神奈川県より払い下げられ、敷地面積は約2倍の371,306平方メートルとなった。川崎製造所は設備を増強し、同社においてバス、トラックなど大型車製造の中心的な役割をになった。


3.川崎工場の移転 

 いすゞ自動車は1971年にゼネラルモーターズと全面提携し、同社の傘下となった。1990年代には、乗用車部門の不振により、RV車、ディーゼルエンジン車の製造に特化する。だが、2003年には当期赤字1443億円を計上し、会社存続の危機をむかえた。同社は大幅なリストラと、製造拠点の海外移転を迫られた。この結果、川崎工場も2004年5月に製造部門を藤沢・栃木に移し、広大な敷地の東半分はヨドバシカメラに、西半分は都市再生機構へ売却された。

 2007年7月現在、いすゞ自動車跡地は、東側にはヨドバシカメラのアッセンブリーセンターが建設され、同社の物流拠点となっている。都市再生機構が所有する土地は、2006年までは砂利に覆われ、野鳥の楽園の様相であった。だが、今ではほとんどがアスファルト舗装され、トヨタ自動車販売の駐車場、建設機械や資材置き場として使用されている。都市再生機構所有地が、羽田空港国際化の際の神奈川口の構想予定地であるが、現在のところ計画は進んでいない。

【釜利谷高校 井上 達也】



写真1 いすゞ自動車川崎工場(2003年7月撮影)

                                          


写真2 多摩川から見たいすゞ自動車川崎工場の全景(2003年11月撮影)



写真3 川崎工場跡地(2006年7月撮影) 一時的に、コアジサシなど渡り鳥の良い繁殖地であった。



写真4 ヨドバシカメラアッセンブリーセンター(2007年7月撮影)




写真5 完成した川崎縦貫道路の一部といすゞ自動車跡地(2007年7月撮影) 


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