県央・県北地区No6-18 地図作りは相模野から 〜近代測量の基となった相模野基線〜

(相模原市)

2013年1月作成

 

1.相模野基線設置

江戸時代、伊能忠敬は、自ら歩き測量したデータを基に地図を作成した。明治になり、三角点を設置し三角測量を行って地図を作成する方法が日本に入ってくる。1882(明治15)年、陸軍参謀本部測量課(後の陸軍測量部、現在の国土交通省国土地理院)が地形図全国整備計画に基づき、近代測量の最初の基点である相模野基線を設けるにあたり、そのスタートとしての最初の基線が相模野に決められた。基線の北端が高座郡下溝村(現相模原市南区麻溝台四丁目)に、南端が高座郡座間入谷村(現座間市ひばりが丘一丁目)に設置された。この両地点を結ぶ線が相模野基線である。

 測量は、測竿といわれるスチール製の物差しが使われた。両端の基準点の間は見通しがきくように、木や草を刈って幅4メートルほどの道を作って測量が行われた。北端点にある相模原市教育委員会の解説によると、1882(明治15)年3月から準備が進められ、9~10月にかけて南北両端点間の実測測量が行われ、基線の全長距離5209.9697メートルが算出された。そして、この成果をもとに1883(明治16)年4月から三角測量が開始され、基線を拡大することにより一等三角網が形成されより大きな三角網の基点となる丹沢山と千葉県鹿野山の間の距離が算出された。この相模野基線を基準とした三角測量は、順次全国へと進められ、日本全国に三角網が作られるようになった。その後、それに基づいて作成された地形図は途中、縮尺の変更等があったが、1925(大正14)年には全国の5万分の1地形図として完成した。


写真1 相模野基線北端点         



写真2 相模野基線北端点案内板





写真3 相模野基線北端点案内板



2.北端点周辺の今

相模野の名の通り原野だった北端点周辺は、北端点設置後まもなく開墾が始まった。大正期には養蚕業の発展とともに桑畑が多く作られた。

1937(昭和12)年、陸軍士官学校の座間移転により、地域の土地の大部分が陸軍によって買収されて士官学校の演習場となった。敗戦後、旧軍用地が開放されると、1945(昭和20)年から1947(昭和22)年にかけて満州などからの引揚者による開拓(再開墾)が行われた。

1960年代になると、市街地から離れていたこともあって養鶏場がいくつも建設されるようになった。しかし、1970年代に入ると周辺の宅地化が進み、鶏舎からの悪臭が問題となり、他地域へ移転したり養鶏場を閉鎖したりする養鶏農家が相次いだ。養鶏所の跡地は、ゴルフ練習場、ドラッグストア、住宅地などに利用されている。現在は、5つの養鶏場が残っている。どの養鶏場もにおいをなるべく出さないような鶏舎の利用、付加価値をつけた卵の生産や直売所を設置するなどの特色ある経営を行っている。卵そのものばかりでなく、卵をふんだんに使ったプリン・シュークリームなどのスイーツを作り直売所で販売している所もある。

【相模原青陵高校 安田 直樹】


写真4 養鶏場


写真5 卵の直売所


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