湘南地区 No.4-4 海軍火薬廠の痕跡を探して (平塚市)

2008年8月作成

 

1 海軍火薬廠の設立から終戦まで

 平塚は、もともと東海道の宿場町であったが、1905(明治38)年に後の海軍火薬廠(=海軍直営の火薬工場のこと)が設立されると工業都市・商業都市として発展した。

 海軍火薬廠は、日英同盟にもとづいて当時輸入に頼っていた無煙火薬の国産化のために日本政府がイギリスのアームストロング社やノーベル社などと合弁で設立した日本爆発物製造株式会社の平塚製造所として発足した。それを、設立時の計画に従って海軍が買収して海軍火薬廠(のちに第二海軍火薬廠と改称)としたものである。

  平塚が火薬工場の用地として選ばれたのは、まず海軍の軍港である横須賀に近いことがあげられる。横須賀がある神奈川県は海軍の施設が多数存在していて、横須賀(追浜)の航空廠、寒川の相模工廠、大船(現在の本郷台)の燃料廠、池子(逗子)の弾薬庫…などがあげられる。三浦半島から湘南地方にかけての地域で横須賀の機能を担っていたことが分かる。その中でも火薬廠が平塚に置かれたのは、砂丘が何列もあったからで、砂丘と砂丘の間にある低地ごとに工場の各部門を設置すれば、万が一爆発事故が起きても砂丘が天然の防護壁の役割を果たして、被害が工場全体に及ぶことを防ぐのに有効であると考えたからだという説が有力である。火薬工場の中は、作業内容別に7つの工場からなっていた。

 第二次世界大戦終了直前の1945(昭和20)年7月16日から17日にかけて、129機のB29爆撃機が平塚に来襲し、44万発を超える大量の焼夷弾が投下されるなどの大規模な空襲を受けた。死者237人をはじめとする多数の死傷者が出て、旧市街の7割が消失し罹災戸数は7678戸に及んだ。しかし、火薬廠そのものは米軍が戦争終了後の使用も考慮していたのか、比較的被害が少なかったという。終戦とともに火薬廠としての機能は停止した。


2 戦後は主に民間の工場用地へと転換

米軍に接収されずに済んだため、その跡地は横浜ゴム、パイロット万年筆、三共製薬(現在は第一三共)をはじめとする各社の工場用地として払い下げられた。また、農林省の果樹試験場本場や平塚市の市役所や中央図書館などとしても利用されている。火薬廠の建物は解体されなかったものも多く、戦後も利用された建物も多かった。当時の工場の建物をそのまま現在も利用している工場もあり、工場の周囲の塀や柵は今でもそのまま使われているのを目にすることができる。

果樹試験場本場などでは、火薬廠当時に使用していたビンなども土の中からよく出てきたという話もある。その後、果樹試験場本場は筑波研究学園都市へ移転したため、その跡地は1991年に完成した平塚総合公園(平塚球場や平塚競技場などを含む)をはじめ、市立大原小学校や県立大原高校として利用されている。


写真1 横浜ゴム平塚製造所正門  火薬廠の当時も正門で、門柱は火薬廠時代のである。




写真2 横浜ゴム平塚製造所内にあった記念館 解体後、市内の八幡山公園の中に移築された。明治39〜40年に建設され、火薬廠時代は将校クラスのクラブハウスだった。




写真3 火薬廠時代の工場建物をそのまま利用している工場




写真4 当時のコンクリートの塀をそのまま利用している例 この場所は、火薬廠に隣接していた海軍技術研究所化学研究部の塀(火薬廠の跡地にも同様のものが現在も点在している)




写真5 平塚共済病院の旧館 火薬廠であった当時は、海軍共済病院であった。手前の水槽は、空襲に備えて作られた防火用水槽。




写真6 共済病院の周囲に残るコンクリート製の柵  県立平塚盲学校などにも同じ柵が残っている。老朽化が進んでいる。




写真はすべて2008年7月撮影

                           【県立鶴嶺高校 能勢博之】


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