横須賀三浦地区No3-7 別荘地としての葉山町の変遷(葉山町)

2010年1月作成

 

1.別荘地としての葉山のはじまり

 首都圏のリゾート地として今なお人気の高い葉山。海岸線にはマリンスポーツを楽しむ人々が集まり、丘陵は市街化調整地域として豊かな緑が残されている。

保養地、別荘地としての葉山の歴史は古く、葉山の別荘ブームは、1889(明治22)年に横須賀線の大船~横須賀間が開通した頃から始まった。横須賀線開通の契機は1884年に横須賀に海軍の鎮守府が設置されたことであり、開通時には大船~横須賀間の停車駅は鎌倉と逗子のみであった。鉄道開設と共に三浦半島西海岸の別荘地化を進めたのは、幕末以降日本に来た外国人が、避暑避寒や余暇を過ごす適地として富士山や江ノ島を望む温暖な海浜を望んだことである。すでに東海道線が開通していた大磯と同様、三浦半島西海岸にも海水浴場が開設され、保養地としての適地となっていった。

葉山の別荘地としての歴史は、1888年に池田徳潤が堀内地区に別荘を建てたのが最初といわれている。葉山を注目すべき存在にしたのは「ベルツの日記」で知られる御雇い外国人ベルツである。ベルツは1876年に来日、その後相模湾沿いの各地へ海水浴場の適地を探すが、横須賀線開通の1889年にはすでに自身の別荘を葉山に所有していたことがわかっている。その後、1894年には下山川河口に御用邸が建てられ、それを契機に一色海岸沿いに宮家、政府関係者の別荘、浜際や海際の山裾の眺望の良いところに多くの別荘が建てられていった。横須賀から交通の便がよかった逗子が軍人を中心に別荘や常住の住宅を中心に発展していったのとは、やや対照的になっている。昭和10年頃の別荘最盛期には約500棟の別荘があったという。すでに、この頃には地元住民の貸別荘が約1500棟あり、合わせると2000棟となった。別荘の数と当時の2000世帯の地元住民を住宅一棟と換算すれば、ほぼ同数であった。


2. 戦後の別荘地の変遷

 第二次大戦後、有爵者や政財界の大物が身分を一挙に失い、別荘を手放さざるをえない状況に追い込まれる。しかし、別荘は大企業の保養所として姿を変えたり、新興資産家として別荘を持ち続ける人、戦争中疎開したまま葉山に落ち着いた人や復興景気で資産をつくった人が戦前の別荘を買い取るなどして建物が維持される。歴史的建造物として葉山に残る戦前の別荘は、こうした経緯を経たものが殆どである。そして、彼らの子孫に受け継がれて当時の姿で今日も残っている。

 1960年以降の高度経済成長期には、葉山の海側は上流階級の保養地から一般の人達の海水浴客のレジャー地と変わって行った。これを可能にしたのが、別荘から保養地への転換である。なお、御用邸を除く宮家の別邸は今日、公園や美術館などの公共施設となり、松林が続く葉山らしい景観を残している。


3.現在の別荘地

 平成の時代となり、バブルが崩壊してから企業の保養所が次々と不動産屋に売られた。敷地周辺の樹木も含め伐られ、戸建て住宅やマンションに変わった。特に森戸地区では緑に囲まれた葉山らしい風情が、都市型の住宅地に一変した。これに危機感を感じた町民と町は建築の高度規制とまちづくり条例を施行したが、森戸、一色、下山口地区では、虫食い状に旧別荘の戸建て開発が現在も続いている。それに加えて、別荘所有者の高齢化からくる代替わりが古い別荘の消滅に拍車をかけている。

 現在、葉山に残る戦前の別荘は全盛期のおよそ1割にあたる5~60棟に過ぎない。しかし、旧東伏見宮別邸(現イエズス孝女修道院)旧畠山一清別荘(現茅山荘)旧加地利夫別荘(現加地別荘)旧小田良治別荘(現鹿島建設研修センター)旧仰木魯堂別荘(旧加藤別荘)などは、新たな別荘の所有者により建物や庭を活かした形で修復され、今日も貴重な歴史的建造物として残されているものもある。

 宅地化されたマンションや新興住宅地と戦前からの別荘や貸別荘の庭と小道が残る古き良き葉山の風情が新旧ともに混在している顔が、今の「葉山らしさ」かもしれない。

                                          【大船高校 的野 宗雄】

                     


写真1 森戸海岸沿いのマンション群

       

写真2 森戸地区の宅地開発

   

写真3 高橋是清別邸跡の老人ホーム


写真4 東伏見別邸(現イエズス孝女修道院)

写真はいずれも2010年1月撮影


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