西湘地区No.5−4 観光客が戻ってきた箱根 箱根山戦争の雪融け(足柄下郡箱根町)

2009年9月作成

 

1.観光客が戻ってきた箱根 中心は日帰りに

  神奈川県を代表する観光地である箱根の観光客数が最も多かったのは、バブル経済が終焉をむかえた1991(平成3)年の2247万人であった。しかしその後は、景気の後退によって観光客が減少し、2000年には最少の1904万人となったが、2007年には観光客数が2000万人台を回復し2026万人(宿泊472万人、日帰り1553万人)となっている。

 伸びの目立つのは日帰りの観光客で、観光客の「安・近・短」志向に箱根が一致し、首都圏の気軽に楽しめる観光地として安定した人気がある。また近年の特徴として、中国・台湾・韓国を中心とした外国人観光客が増加している。宿泊客も回復しており、一度は閉鎖されたものを含めホテル・旅館のリニューアルがさかんになっているほか、減少が目立つペンションが形態を変えて旅館となっている。またその際に、旅館・ホテルの超高級化あるいは安価なものへの転化が行われ、多様なニーズにも応えられるようになってきている。しかし一方では寮・保養所の閉鎖が続いており、そのペースこそ鈍ってきているが企業の厚生施設は減少の一途をたどっている。


写真1 箱根観光の中心地の一つ大涌谷 (2006年撮影)


2.西武VS小田急の箱根山戦争

 箱根の観光産業は、西武グループ(伊豆箱根バス、プリンスホテル、駒ヶ岳ロープウェー、十国峠ケーブルカー、芦ノ湖の双胴船、など)、小田急グループ(箱根登山鉄道、箱根登山ケーブルカー、箱根登山バス、箱根ロープウェイ、箱根観光船=芦ノ湖の海賊船、など)と、藤田観光(小涌園)が三大資本である。西武と小田急はそれぞれ交通機関・ホテル・観光施設を持っていて、主な観光地にはどちらも自分のグループの交通機関で行けるように路線を持っている。

 昭和20年代に端を発した箱根の主導権争いが、昭和30年代には「箱根山戦争」とまで言われるほどの対立となったが、これは実質的に小田急の背後にいた東急グループの五島慶太と、西武グループの堤康次郎との間の争いでもあった。その様子は、獅子文六が小説「箱根山」に描いている。

 このきっかけは両社が互いに芦ノ湖の遊覧船や箱根のバス路線に参入しようとした結果生じたもので、運行の差し止めなどを巡る訴訟や株式の買収合戦にまで発展した。その後、運輸大臣が調停に乗り出したり、神奈川県が西武グループ所有の有料道路を買収して県道とするなど、国や県も巻き込んでようやく収束したのが1968(昭和43)年のことであった。

 しかし、両社はその後も犬猿の仲のままで、同じ道路を小田急系の箱根登山バスと西武系の伊豆箱根バスが走っていても、両者でバス停の名称が異なったり、グループ外の観光施設にはバスが乗り入れないようにしていた。また乗り放題のフリーパスも、グループ外の乗り物や施設には無関係なままであるなど、観光客不在の対立が続いていた。


写真2 小田急系の箱根登山鉄道(大平台駅にて)2009年撮影


3 観光客の減少から西武と小田急が連携へ

 バブル経済崩壊後の観光客減少は、西武グループと小田急グループが長年の対立に終止符を打つきっかけとなり、2003年には両グループが箱根地区の観光事業で連携することを発表した。

 この結果、小田急高速バスが西武グループの箱根園に乗り入れ、小田急グループのフリー切符の割引施設に西武グループのものを入れる一方、小田急系のフリー切符を西武鉄道沿線の駅でも発売するようになった。また、箱根登山バスと伊豆箱根バスのバス停名の統一などが行われるなど、両社の雪融けにより利便性は向上した。しかしフリー切符においては、現在でもグループ内の交通機関しか利用できず、観光客から見れば不便さはまだ残っている。

 また小田急では、従来は新宿発のみであった箱根湯本行きの特急ロマンスカーに、2008年から東京メトロ・千代田線北千住発のものを加えるなど、東京東部から箱根方面への集客増を図っている。

【鶴嶺高等学校 能勢博之】

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